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『平家物語』は栄枯必衰の物語。
 
 
木曽義仲の軍が迫る中、栄華を極めた平家が安徳天皇を連れて都落するシーンは、この世のはかなさを見事に表現しています。
 
 
『平家物語』七の巻は、
 
首上都落(しゅしょうのみやこおち)
維盛都落(これもりのみやこおち)
忠度都落(ただのりのみやこおち)
経正都落(つねまさのみやこおち)
一門都落(いちもんのみやこおち」

 
と、都落ラッシュです。
 
 
それぞれが慌ただしく支度をし、都にゆかりの人たちとの別れをしのび西へ落ち延びていく様は、諸行無常を感じずにはいられません。
 
 
忠度もまた、都を去る平家一門のひとりでした。
 
 
もう二度とここには戻れないだろうと覚悟していったん都を離れましたが、どうしても心に残ることがり引き返しました。
 
 
『平家物語』七の巻の「忠度都落(ただのりのみやこおち)」と九の巻の「忠度最期(ただのりのさいご)」について詳しくお伝えします。

 
 

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平家随一の歌人にして武人「平忠度」(たいらのただのり)


 
薩摩の守(さつまのかみ)平忠度(ただのり)平忠盛の六男で平清盛の末弟でした。
 
 
彼は歌人として知られた人ですが、実は一門の中でも文武両道に優れた人でした。都落の前に「富士川の戦い」や「倶利伽羅峠の戦い」などに出陣しています。
 
 
1183年7月、源氏(木曽義仲)の軍がそこまで来ているとの知らせを受け、平家一門の多くがあわただしく西へ出立しようとし、都は騒然としていました。
 
 
忠度も支度をして都を去りました。ところがその途中、彼は危険を承知で侍5人と近侍の少年1人を連れて都に戻ったのです。
 
 
目的は、五条京極(きょうごく)に邸をかまえる藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい)の屋敷を訪ねることでした。
 
 
都はたいへん治安が悪くなっていたので、俊成の邸の門はしっかり閉じられていましたが、「忠度です!」という彼の声を聞いた俊成は、門を開けるよう命じてくれました。

 
 

師匠に自作の和歌集を託す

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忠度は俊成にこう言いました。
 
 
「長年、私はあなた様に歌のご指導をうけてきました。この2~3年は京の騒動と地方の反乱がやなまかったので、以前のように伺えませんでした。」
 
 
「平家一門の運命ももはやこれまでです。このたびあなた様が勅撰和歌集を選ばれる予定でしたのに、この戦乱で取りやめになったと聞いています。しかし、世の中が静まれば、また勅撰集の選集の命が出るかもしれません。そのときは忠度も生涯の名誉に一首でも入れていただくことができたら、草葉の陰からうれしく感じ、あなた様をいつまでもお守りいたします。
 
 
忠度は和歌を愛する人でした。そして、いつか和歌の師匠である藤原俊成が勅撰和歌集を選ぶときがあれば、是非自分の歌も入れてほしいと願って危険を顧みず戻ってきたのでした。
 
 
そして、忠度は鎧(よろい)の合わせ目から巻物を取り出しました。
 
 
それは、彼が日頃、詠んだ和歌の中から100余りの秀歌を選んで書き集めたものでした。源平合戦で戦場に駆り出されながら、合間をみては詠んで書き留めていた和歌でした。
 
 
俊成は、その巻物を受け取って言いました。
 
 
「このような忘れ形見をいただいた以上、けっしてなおざりにはしません。(絶対選ぶから安心して)
それにしてもこんな物騒な中を、わざわざ戻ってきて届けに来てくれたとは、歌道にかける熱心さに感じ入りました。」
 
 
薩摩の守・忠度は、師匠の言葉を聞き喜びました。
 
 
「なんとありがたいお言葉。
これでもう、西海の海に沈んでもよい、野山に骸(むくろ)をさらしてもよい、もうこの世に思い残す事はありません。それでは、お暇致します。」
 
 
そうして兜(かぶと)をしめた忠度は、馬にまたがって西へ西へと駆けていきました。

 
 

別れの最後は「送別の歌」で


 
西へと馬をすすめる忠度の後ろ姿がはるかに遠くに見えるまで、俊成はずっと彼を見送っていました。
 
 
すると、去りながら高らかに口ずさむ忠度の声が聞こえました。
 
 
「前途ほど遠し」
「思いを雁山(がんざん)の夕べの雲に馳(は)す」

 
 
(訳)「ああ、これからの旅路は遠い。その途中、夕暮の雲たなびく雁山を越えるかと思うと、なおさら悲しい」
 
 
それは「和漢朗詠集」の中にある大江朝綱が鴻臚館で渤海の使節を送る宴で詠んだ歌でした。「送別の歌」として平安末期に広く知られていた歌だったのでしょう。
 
 
この歌はそのあと「再会は期しがたい」という意味の言葉が続きます。
 
 
「再び会うことはないだろう」という最後の一言を、忠度はあえて言わなかったのか、それとも俊成に聞こえなかったのか・・・
 
 
俊成はますます名残が惜しくなり、涙をおさえながら門内に入りました。

 
 

「読み人知らず」の歌一首


 
ずいぶん後になって争乱が収まった後、俊成は『千載集』という勅撰和歌集を選んだのですが、そのとき、忠度の別れの言葉がしみじみと思い出されて、感じ入りました。
 
 
忠度から託された巻物には、勅撰和歌集に入れてもよいと思われる優れた歌がいくつもありました。
 
 
でも、源氏の世となった今、平家の忠度は「朝敵」、つまり朝廷のお咎めを受けた人だったので、その名を表に出すことは許されません。
 
 
そこで俊成は「故郷の花」という題で詠まれた歌一首を、詠み人知らずとして載せました。
 
 
さざなみや 
志賀(しが)の都は
あれにしを
むかしながらの 
山ざくらかな

 
 
(訳)「小波の打ち寄せる旧都、志賀(しが)の都はすっかり荒れ果てたものだけれども、いいや、ほら、昔のままに長良山(ながらやま)には桜が美しく咲き匂っているよ」
 
 
その身が朝敵となってしまったからには仕方がない、とはいえ、こうして詠み人知らずとしか、また一首しか載せられなかったことを、俊成は心から残念に思いました。

 
 

「忠度最期」(ただのりのさいご)


 
さて、お次は『平家物語』九の巻の「忠度最期(ただのりのさいご)」について。
 
 
都落ちし西へと向かった薩摩の守・忠度(さつまのかみ・ただのり)は、「一の谷の合戦」で平家の西の軍の総大将を務めていました。
 
 
源義経による背後からの攻め(ひよどりごえ)により忠度の軍が退却していたところ、敵方の岡部六野太忠純(おかべのろくやたただずみ)の目にとまりました。
 
 
「あれは、見るからに大将軍!」
「あなたはいかなるお方か、お名乗りなされ!」
 
 
忠度は自分にはつり合わない小物だなと判断し、「私は味方だぞ!」と答えました。
 
 
ふり返った忠度の兜(かぶと)の下の顔をよく見ると、歯を鉄漿黒(おはぐろ)で真っ黒にそめているではないですか。
 
 
味方(源氏)におはぐろをしている武士はいない、きっと平家の公達だろうと思い、六野太は馬を押し並べてむんずと組みました。これを見た100騎ほどの平家の兵は、彼らは寄せ集めの兵だったので1騎も残らず逃げ去ってしまいました。
 
 
忠度は「憎い奴よ。味方だと言ったのだから、そう思えばよかったのだ」と言って、すばやく刀を抜き、六野太(ろくやた)を馬の上で2刀、馬から落ちたところで1刀、合わせて3刀突きました。
 
 
忠度は熊野の山育ちで、剛力で刀の早業に優れた武将でした。
 
 
しかし、彼の突きの2刀は鎧(よろい)の上だったので通らず、1刀は内兜へ突き入れたけれど浅傷でした。死ななかったので、取り押さえて首を斬ろうとしたところに、六野太(ろくやた)の味方が駆けつけ、忠度の右腕を肘の上から斬り落としてしまいました。
 
 
もはやこれまでと思った忠度は「しばらく退いておれ。十念(南無阿弥陀仏を十回)を唱える」と言って、六野太をつかんで投げ飛ばしました。
 
 
利き腕を斬り落とされながら左手で武装した武人を投げ飛ばすとは、凄いですね。
 
 
そして、忠度は西に向かって声高に「十念」を唱え、「光明遍照十方世界、念仏衆生攝取不捨!」と言い終わらないうちに、六野太に後ろから討たれました。
 
 
六野太は、立派な大将軍を討ったと思うけれど、名がわからなかったので、箙(えびら)に結びつけられた文(ふみ)を解いてみました。すると、「旅宿の花」という題で一首の歌が記されていました。
 
 
行(ゆき)くれて
木(こ)の下かげを
やどとせば
花やこよいひの
あるじならまし

 
 
(訳)「旅の途中で日が暮れて、桜の木の陰下を一夜の宿としたならば、さしずめ桜の花こそが宿の主人としてもてなしてくれるだろう。」
 
 
詠み人は「忠度」(ただのり)とありました。
 
 
六野太は、自分が討ったのは薩摩の守忠度(さつまのかみただのり)だったのだと知りました。
 
 
そして、忠度の首を太刀の先に貫いて高く掲げ、「日ごろ、その名も高い平家の御方・薩摩守殿を、岡部六野太忠純がお討ち申したぞ!」と大声で名乗りました。
 
 
これを聞いた敵も味方も、みなが悲しみました。
 
 
おいたわしい、おいたわしい、武芸にも歌道にも優れておられた方が、そんなお方が・・・
 
 
「惜しむべき大将軍を」と言い、みなが涙を流しました。(袖を涙で濡らさぬ人はいませんでした)
 
 
【参考図書】





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