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1185年3月、「壇ノ浦の戦い」で源氏が勝利し、源平の合戦は終わりました。
 
 
そのとき、多くの平家の人たちとともに、平清盛の孫・第81代安徳天皇も祖母の二位尼に抱きかかえられ入水自殺したと伝えられます。
 
 
平家一門(清盛?)に翻弄されるためだけに生まれたような、短い哀しい一生でした。
 
 
今回は、わずか3歳で即位し、6歳で壇ノ浦に沈んだ悲劇の天皇の伝説についてお伝えします。

 
 

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平家の帝・安徳天皇誕生

 

【Wikipediaより引用】

 
安徳天皇は、1178年、高倉天皇と平清盛の娘・徳子(建礼門院)との間に生まれた皇子です。
 
 
高倉天皇の父は後白河法皇で、母は平清盛の妻(二位尼)時子の異母妹でした。
 
 
つまり、高倉天皇と徳子は従兄妹だったのです。政略結婚だったので結婚したときは2人ともまだ子供でした。成人してから安徳天皇が誕生しているので、兄妹のような仲の良さだったのかもしれません。
 
 
平清盛は生まれた孫が「皇子」だったので、これで外戚として実権を握れると喜び、孫を生後すぐ(1ヶ月)に東宮(皇太子)にしました。そして、2歳にならないうちに高倉天皇が譲位し安徳天皇として即位したのです。
 
 
高倉天皇は上皇となり「院政」を始めましたが、1年ほどで病気で亡くなりました。これで幼い安徳天皇は、祖父の平清盛の意のままに・・・清盛やりたい放題です。
 
 
このころは、もう平家の横暴なふるまいがひんしゅくを買っていて、不穏な空気になっていました。
 
 
そうして、1180年2月に安徳天皇が即位したその約3ヶ月後、以仁王(もちひとおう)が平家打倒を呼びかけ源氏の長老・源頼政とともに宇治で挙兵したのです。
 
 
9月には木曽義仲が挙兵し、10月には源頼朝の「富士川の戦い」が起こっています。
 
 
「源平合戦」の幕開けです。
 
 
安徳天皇は、とんでもない時期に即位してしまった幼児だったのです。
 
 
頼みの綱のおじいちゃん(平清盛)は、なんと翌年2月に病死してしまいました。
 
 
最悪です!
 
 
平家一門は都を捨てて西へ逃げましたが、安徳天皇も母の徳子(建礼門院)も一緒に連れて行きました。

 
 

「源平の合戦」に巻き込まれて壇ノ浦で死亡

 

【Wikipediaより引用】

 
平氏は「一の谷の戦い」「屋島の戦い」と敗戦を重ねましたが、どうしても安徳天皇と「三種の神器」を手放そうとしませんでした。
 
 
そうして、安徳天皇はとうとう最後の決戦の地「壇ノ浦の戦い」で、敗北した平家一門とともに海に沈んだのです。
 
 
【関連記事】
⇒★「一の谷の戦い」平家の美少年・敦盛最期
⇒★那須与一と「屋島の戦い」
⇒★「壇ノ浦の戦い」をわかりやすく!
 
 
わずか6歳(数え8歳)でした。何が何だかわけがわからないままだったでしょうね。
 
 
「平家物語」の「先帝身投(せんていみなげ)」で祖母の二位尼(にいのあま)「波の下にも都がございますよ」と言って共に入水するシーンはよく知られています。
 
 
でも、こういう混乱した状況の最期の場合、ささやかれるのが生存説です。
 
 
安徳天皇にも生存していたという伝説が、いくつか残っているのでした。
 
 
天皇ほどの人ならば、影武者のような「替え玉」を置いていてもおかしくないとも思えます。もしかしたら、安徳天皇がこっそり生き残っていてもおかしくないと思えてしまうのでした。

 

 

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安徳天皇を祀る「赤間神宮」

 

【Wikipediaより引用】

 
安徳天皇の死亡を裏付ける伝説は、安徳天皇を祀る山口県下関市の「赤間神宮」に残っています。
 
 
人は水死すると遺体が膨張してかなりエグイ状態になり、一旦水面に浮かび上がります。
 
 
そのまま流され沖の方にいってしまったら見つけることは難しいのですが、波に乗って陸に打ち上げられる場合もあります。
 
 
安徳天皇の遺体は波に流されて下関市の岸に流れ着き、その土地の者の手で引き上げられたと伝わります。
 
 
そして、その亡骸は、現在の「赤間関神宮小門御旅所」のある場所に安置されたそうです。(あくまで伝説です。Wikipediaでは「死体は発見できなかった」とあります)
 
 
平氏が安徳天皇を連れて逃げたため、都では源氏により新たな天皇が即位していました。
 
 
それが、安徳天皇の異母弟にあたる後鳥羽天皇です。
 
 
「源平の合戦」が終わった後、後鳥羽天皇は兄・安徳天皇の霊を鎮めるためにこの地で「先帝祭」を催しました。
 
 
この祭りは、なんと現在までずっと続ているのだそうですよ。
 
 
800年以上続いていることになります・・・

 
 

生存説の鍵を握るのは平資盛 !?

 

【Wikipediaより引用】

 
安徳天皇が生存していたとされる伝説のキーマンとなるのは、平資盛(すけもり)です。
 
 
平資盛(すけもり)はあの舞の名手の美貌の貴公子・平維盛(これもり)の弟なのでした!
 
 
平維盛についてはこちらの記事をどうぞ!

   ↓


 
 
ここで、平の資盛(すけもり)について少し説明を・・・
 
 
資盛は清盛の亡き長男・重盛の息子です。長男の孫なのです。血筋はめっちゃいいです。
 
 
彼の母はたいそう美しい女性だったらしく、兄も前述のとおりの麗人です。
 
 
資盛も予想を裏切らないかなりのイケメンで、男色パラダイスだった「院政」時代の朝廷で、後白河法皇にたいへんかわいがられていたのだそうです。
 
 
そして、才色兼備の年上のお姉さま・建礼門院右京大夫(けんれいもんいんうきょうのだいぶ)とのラブロマンスでも知られた人でした。
 
 
彼は「平家物語」では「先帝身投(せんていみなげ)」の次の「能登殿最期(のとどのさいご)」で、他の平家一門とともに壇ノ浦で入水したことになってます。
 
 
ところが、「屋島の戦い」の後、平知盛と話し合って安徳天皇を連れて別部隊を率いて南下したという伝説が残っているのです。
 
 
海を南下していった彼らが行きついた先は、鬼界ヶ島(きかいがしま)、「鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀」で俊寛が流された島と伝わります。
 
 
安徳天皇はその島で島民に託されたという説と、対馬まで行きついてそこで暮らしたという説が残っているのでした。
 
 
あくまで伝説ですけれど・・・
 
 
私は、この伝説が本当だったら、その後の平資盛はどうなったのか、そっちのほうが気になります。
 
 
どこまで行ったんでしょうね~。
 
 
中国地方には、平家の「落人(おちうど)伝説」や「隠れ里」の伝説がたくさん残っています。
 
 
安徳天皇がどこかでひっそり暮らせていたらという後世の人々の思いが、生存伝説を創り出したのかもしれません。

 
 
【源平の合戦のまとめ記事】
    ↓

 

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