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「源平の合戦」のクライマックス「壇ノ浦の戦い」は、前回お伝えした那須与一が「扇の的」で活躍する「屋島の戦い」のすぐ後(約1カ月後)に起こりました。
 
 
「一の谷の戦い」(神戸)、「屋島の戦い」(四国の屋島)で源氏に敗北した平氏は、このとき九州地方もすでに源範頼に落ちていたので、西に逃げることもできない孤立状態にありました。
 
 
そうして、平氏は九州よりの瀬戸内海に浮かぶ島「彦島」に立てこもったのです。
 
 
彦島は小さい島です。となると、決戦はおのずと「海の上で」となりました。

 
 

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決戦「壇ノ浦の戦い」

 

【Wikipediaより引用】

 
1185年3月24日、源平の戦いの決戦の場所は「壇ノ浦」、現在の山口県下関近くの海上です。
 
 
「屋島の戦い」で敗れた平氏は彦島に立てこもり、東は源義経、西は源範頼に包囲されてしまいました。
 
 
兵の数は源氏の水軍830艘、平氏の水軍500艘だったといわれます。
 
 
源氏軍(義経)が東から攻め込み、それを迎え撃つ形で実質的な総大将平知盛(平清盛の次男)率いる平氏軍が彦島から出撃し「壇ノ浦の戦い」が始まりました。
 
 
平氏はもともと瀬戸内の水軍です。海戦に不慣れな源氏軍と違って海上戦は得意でした。そして、関門海峡の海流の流れも熟知していました。
 
 
だから、始めは平氏が優勢だったのです。
 
 
ところが、午後になると、潮の流れが変わって源氏軍を後押しするように波が動きました。
 
 
さらに、大将の源義経が平氏の「船の漕ぎ手や船頭を射て!」と命じたのです。
 
 
当時の戦では「漕ぎ手」など非戦闘員を射ることはルール違反でした。
 
 
そもそも源義経の戦い方は、これまでも当時の戦のルールを無視しまくってます。
 
 
得意な背後からの急襲(ゲリラ戦)も卑怯だと思われていましたし、勝つために手段を選ばない彼の戦い方を面白くないと思う味方(源氏)の武将もたくさんいました。
 
 
漕ぎ手を殺すと船は動きが止まるので、平氏は壊滅状態になりました。平氏の敗けはこの時点で確定したのです。
 
 
平家一門は敗北を悟り、主だった武将たちは次々と海へ身を投じました。

 
 

安徳天皇の最期(先帝身投)

 

【Wikipediaより引用】

 
「三種の神器」とともに平氏に護られていた安徳天皇が、この壇ノ浦で海に沈むことになります。
 
 
「平家物語」の有名な「先帝身投」です。
 
 
平清盛の孫の安徳天皇は、このときわずか6歳でした。そして、彼は母や祖母と共に平氏の女性たちと同じ船に乗っていました。
 
 
そこへ平知盛が来て、もうすぐ東男(源氏軍)がこの船にもやって来ると告げたのです。乱暴な源氏の男たちがやって来るとなると、女性たちも無事では済まないでしょう。
 
 
安徳天皇の祖母(平清盛の妻)の二位尼(にいのあま)と母(平清盛の娘)の建礼門院(けんれいもんいん)は、いよいよと覚悟を決めました。
 
 
そして、二位尼(にいのあま)が安徳天皇を抱きかかえました。安徳天皇は、「三種の神器」のうちの「天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)」と「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」を身につけていました。
 
 
でも、幼い安徳天皇には状況が理解できませんでした。
 
 
彼は祖母に向かって「わたしをどこへ連れて行くのだ?」とたずねました。
 
 
「波の下にも都がございます。これからわたくしがご案内いたしましょう」そう答えた二位尼は、安徳天皇を抱きかかえたまま海へ身を投じたのでした。
 
 
安徳天皇の母の建礼門院も2人と一緒に入水したのですが、彼女は長い髪を熊手に引っ掛けられて引き上げられ、源氏軍に命を助けられました。
 
 
この辺りのくわしい描写は「平家物語」によるものなので、詳細の真偽は不明です。でも、2人が亡くなり建礼門院だけが助かったのは確かでした。
 
 
平氏の人々は、男性も女性も次々と海に身を投じました。
 
 
こうして、権勢をほこった平家は滅亡したのです。
 
 
まさに「諸行無常」・・・
 
 
この世のあらゆるものは絶えず変化し、永遠不滅のものはないのでした。
 
 
「平家物語」の冒頭の「諸行無常」は、仏教の根本主張「三法印」の1つでもあります。(あとの2つは「諸法無我」と「涅槃寂静」)
 
 
切なく美しい日本の「滅びの美学」です。

 
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三種の神器の行方は?

 

【Wikipediaより引用】

 
源氏と平氏の戦いは、1185年3月の「壇ノ浦の戦い」で源氏の勝利で決着がつきました。
 
 
戦いの末に生き残った平氏の武将たちは、その後、それぞれ罰を与えられることになります。
 
 
幼い安徳天皇は亡くなり、「三種の神器」の1つ草薙剣(くさなぎのつるぎ)は天皇とともに海の底に沈み、今も見つかっていません。
 
 
次に即位した天皇は、安徳天皇の母親違いの弟、まだ幼い後鳥羽天皇でした。
 
 
そう、後に「承久の乱」(1221年)で流刑になる後鳥羽上皇です。彼は4歳で皇位につき19歳で退位し、上皇となって院政を行いました。文武両道ですべてが天才の域に達していた有能な上皇でした。
 
 
後鳥羽天皇は正当な帝の証である「三種の神器」がそろわないまま天皇に即位したことを、ずっと気にかけていました。
 
 
そうして、寺社に加持祈祷を行い、関門海峡に沈んだ草薙剣(くさなぎのつるぎ)を、その後もずっと朝廷と源氏軍に探させていたのです。
 
 
でも、結局宝剣を見つけることはできず、朝廷は伊勢神宮から献上された剣を「草薙剣」としたのでした。

 
 
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