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今回は、源頼朝の側近で頼朝亡き後、「鎌倉殿の13人」の一員だった梶原景時についてお伝えします。
彼は「源平合戦」で頼朝の弟・源義経と対立し、讒言したことからドラマなどでは悪役にされがちですが、実際はどういう人物だったのでしょうか。
目次
梶原景時の生い立ち
1140年頃、梶原景時は鎌倉の梶原を本拠地とした武家に生まれました。父親は坂東八平氏の流れをくむ梶原景清です。
梶原氏は同族の大庭氏とともに、もともと源氏の家人でしたが、「平治の乱」で源義朝が討たれた後は平家に従っていました。
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「石橋山の戦い」で頼朝と出会う
1180年、源頼朝が伊豆で挙兵すると、梶原景時は大庭景親らとともに「石橋山の合戦」で平家側で戦い、頼朝を破りました。
この戦で景時は山中の洞窟に逃れた頼朝の居所を突き止めたのですが、あえて平氏には知らせず見逃しました。梶原氏はもともと源氏側の人間だったので、平家には仕方なく従っていたのですね。だから、源氏の御曹司の居場所を知りながら見なかったことにしたのです。
頼朝は自害するところを見逃してくれた景時にとても感謝し、彼を命の恩人と心に留めました。その後、頼朝は体制を立て直して「富士川の合戦」で大勝利し、頼鎌倉入りを果たしました。
1181年1月、梶原景時は頼朝のもとを訪れ、晴れて御家人になりました。梶原景時が42歳のときでした。
命の恩人として頼朝の腹心になる
山中の洞窟で九死に一生を得た頼朝は、そのとき見逃してくれた景時への恩を忘れてはいませんでした。
それに、景時は京都の貴族に仕えていた経験もあって見識が広く、たいへん有能でした。公家との交流があったので、京都との連絡・調整役もでき、文化的な素養も高かったのです。
彼はすぐに頼朝からその能吏ぶりを認められ、重臣となり「侍所」の所司に抜擢されました。「侍所」は、軍事・警察をつかさどる部署で、幕府の中枢を占める組織のひとつです。
上総広常(かずさひろつね)の誅殺
頼朝の呼びかけで平家打倒のため集まった氏族の中には、大きな勢力を持つものもいました。
その中でも特に大きな軍事力を持つ上総広常(かずさひろつね)は、頼朝を軽く見る発言をしたり、たもとを分かって独立しようとしようと発言したりしました。つまり、戦において役に立つ反面、危険分子でもあったわけです。
1183年、上総広常(かずさひろつね)と双六(すごろく)をしていた梶原景時は、突然、刀を抜いて、双六板越しに上総広常(かずさひろつね)の首を討ち取りました。
その理由は「謀反の嫌疑」(←煙たい人間を消す大義名分)です。
景時のこの行動は、頼朝の密命によるものとも景時が忖度したものとも憶測されます。
実際、事後に調べたところ、上総広常(かずさひろつね)には謀反の意志は無しとわかりました。そのとき、頼朝は上総広常(かずさひろつね)を惜しんでたいへん後悔したというパフォーマンスをしました。
こういうことが重なり、景時は頼朝の信頼はいっそう厚くなりましたが、御家人たちからはいつ糾弾されるかわからないと恐れられる存在になっていったのです。
「源平合戦」で義経と対立
「源平合戦」の折、梶原景時は土肥実平とともに軍奉行(総指揮官)に任じられました。
その軍奉行の上に、頼朝の名代として弟の範頼と義経がいました。
軍事面では、すべての指揮は軍奉行にありましたが、範頼や義経は源氏の象徴という立場にありました。
頼朝は、出陣するとき、「軍奉行」と「名代」のそれぞれが組んで、補い合って行動するように命じました。
それで、土肥実平が範頼と組み、景時は義経と組むことになります。土肥と範頼はうまく協力関係を築けたのですが、景時の義経は何かあるごとに対立しました。
しかし、梶原の策をことごとく退けて強硬策をとる義経は、なぜか大勝利を重ねます。
これを怨んだ景時は、鎌倉に入る頼朝に義経の「悪口」を書き送ったといわれます。これが「梶原景時の讒言」とよばれるものです。
次第に頼朝と義経は不仲になっていき、とうとう義経は悲劇的な最期を迎えることになったのです。
その原因のひとつが景時の讒言にあると思われ、後世の判官贔屓、義経贔屓の人たちから景時は悪者、悪役のレッテルを張られるようになりました。
一方で、1192年に梶原景時は和田義盛に代わって「侍所別当」に就任し、頼朝からの信頼はどんどん厚くなりました。
「鎌倉殿の13人」のメンバー入り
1199年、源頼朝が死去し、18歳の嫡男・頼家が家督を相続し2代目鎌倉殿になりました。
若い将軍を補佐するため、13人の有力御家人で合議制を行うことに決まりました。
梶原景時は頼朝の側近だったのでもちろんメンバーに入っていましたが、さらに、彼は現将軍・頼家の乳母夫だったため、大きな権力を持ちました。
乳母夫というのは乳母の夫のことで、いわば育ての親、強力な「後ろ盾」です。
大きな力を持つ目付け役の景時は、御家人たちからさらに恐れられ、煙たられるようになっていきました。
「梶原景時の変」で失脚
梶原景時が就任していた「侍所」別当は、御家人たちの行動に目を光らせ、勤務評定や取り締まりにあたる目付役だったので、もともと御家人たちから恨みを買いやすい立場にありました。
合議制成立から半年ぐらい経った秋、将軍御所の侍所で御家人の結城朝光(ゆうきともみつ)が、頼朝の供養の場で思い出を語り「忠臣二君に仕えずというが、あの時出家すべきだった。今の世はなにやら薄氷を踏むような思いがする」と言いました。
その発言を耳にした景時は「それは新将軍には仕えたくないという意味か」と謀叛の意としてとらえたと噂されました。
結城朝光は謀反の意などなかったので、北条時政の娘(北条政子の妹)の阿波局(あわのつぼね)からそのことを聞かされてびっくり仰天し、急いで友人の三浦義村のもとに駆け込み相談しました。
そして、景時に戦々恐々としている他の御家人たちも彼に賛同し、66人もの御家人が著名した梶原景時への「弾劾状」が将軍頼家に差し出されたのです。
頼家に問い詰められた景時は、一言も弁解せずに即座に鎌倉を去り、領地の相模一宮で謹慎しました。
翌年の1200年、梶原景時は手勢を率いて上洛しようとします。しかし、駿河を下っている途中、その土地の御家人に討たれて、一族ともどもに討ち死にして果てました。61歳でした。
失脚の影には黒幕が?
「梶原景時の変」は、源頼朝が亡くなって1年もたたない内に起こりました。
彼が御家人たちから煙たがられ恐れられていたのは確かですが、彼の失脚に関しては事の進み方がうまくいきすぎているように感じます。
梶原景時が「結城朝光に謀反の疑いをかけた」という噂を朝光本人に伝えた阿波局は、北条時政の娘で、しかも頼家の弟・実朝の乳母でした。
また、上洛途中に彼が討たれた駿河は北条氏の領地内です。
この手際の良さから、梶原景時の排除は、自分たちが後見している実朝を将軍に擁立したい北条氏が、頼家失脚のために討った布石ではと憶測されるのです。
頼朝時代から影の仕事、嫌われ役を引き受けてきた景時には、そのことがわかっていたのかもしれません。
しかし、頼朝と違って、頼家にはそういうことが理解できなかったのでしょう。
頼朝を献身的に支え頼朝からそれを認められ重用されてきた景時は、主君が変わったときにその役割を終えたのかもしれません。
御家人たちからの弾劾があったとき、彼は将軍もろとも鎌倉幕府を捨て、自分の居場所を京都に見つけようとして上洛を試みたのでしょう。
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