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平知康 (たいらのともやす)は、平氏ですが、平清盛の伊勢平氏でも坂東平氏でもない後白河法皇の側近でした。
 
 
彼は後白河法皇の「北面の武士」のひとりで、「鼓(つづみ)」の名手だったため鼓判官(づづみのほうがん)と呼ばれます。
 
 
「判官」はそのとき就いていた官職です。
 
 
失敗しても何度もよみがえる転職上手な平知康の人生を紹介します。

 
 

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平知康の生い立ち

 

 
平知康は、平知親の子として生まれました。生没年は不詳、母も不詳です。
 
 
平知康は、後白河法皇の院御所の北側の部屋に入り、院御所の警備をする「北面の武士」のひとりでしたが、父の知親も「北面の武士」でした。
 
 
法皇の近くにいた彼は、後白河法皇からかなり気に入られて側近になりました。

 
 

木曽義仲にぼろ負けして解任される

 

 
「源平の合戦」で、1183年に木曽義仲が、平家討伐のため上洛しました。
 
 
木曽義仲は田舎者で都のしきたりや慣習にうとく、彼の連れてきた兵の中には、都の庶民に狼藉を働くものもたくさんいました。それで、法皇や貴族たちからは馬鹿にされ、庶民からは恐れられ嫌がられる存在になっていったのです。
 
 
平知康は、そんな木曽義仲と朝廷との間の「交渉役」になっていました。
 
 
『平家物語』の中では、平知康は後白河法皇の命を受け、規律がめちゃくちゃで乱暴狼藉をはたらく兵を諫めろと、木曽義仲に注意しました。
 
 
しかし、義仲はあいさつへをしても返事も返さず、「鼓判官といわれるのは、人から打たれでもしたのか、張られてでもしたか」と失礼なことを言うばかりで、話にならないと憤慨しました。
 
 
平知康の箴言で後白河法皇は木曽義仲を切り捨て、源頼朝に頼るように方針を変えました。
 
 
京から出るように命じられた木曽義仲は、後白河法皇に敵対し、院御所の周りを兵で囲んでしまいます。
 
 
このとき平知康が指揮をとり、院御所の法住寺殿に堀や柵をめぐらせて兵を集め、臨戦態勢を取りました。
 
 
1183年11月、木曽義仲がとうとう法住寺殿を攻撃したため、平知康指揮のもとで応戦しましたが、ぼろ負けしてしまいます。
 
 
そうして、後白河法皇は木曽義仲に捕らえられ、摂政・近衛基通の邸に幽閉されてしまいました。
 
 
平知康は責任を問われて、解任されました。
 
 
一方、小曾義仲は、源頼朝の配下(弟)の源範頼・義経軍と戦い、敗死しました。『平家物語』の「木曽最期」です。

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検非違使に復官し源義経と懇意に

 

 
検非違使(判官)をクビになった平知康は、それから2年後の1185年、復官して当時、京にいた源義経に近づきました。
 
 
その頃の義経は、飛ぶ鳥を落とす勢いです。そうして、壇ノ浦で平家は滅亡し源氏の勝利に終わりました。
 
 
しかし、平家滅亡後、源頼朝と源義経の仲が悪化し、対立していきました。
 
 
源義経は、兄の頼朝から鎌倉に入ることを許されず、京に舞い戻り、義経と親しかった平知康は、再び解任されてしまいました。

 
 

源頼家の蹴鞠の師匠から側近に

 

 
1186年、源義経と仲が良かったばっかりに検非違使を解任された平知康は、『吾妻鑑』によると、釈明(弁解)をするために鎌倉を訪れました。
 
 
そうして、鎌倉に下向した後、どういうわけかそのまま鎌倉にとどまり幕府に仕えるようになります。
 
 
頼朝の息子・源頼家は蹴鞠に夢中になっていて、平知康がそれを教えることになり、頼家の側近として仕えるようになりました。
 
 
それから約17年後(1203年)、「比企能員(ひきよしかず)の変」が起こり、そのあと源頼家が鎌倉を追放されて伊豆の修善寺に幽閉されてしまう事件が起こると、平知康は鎌倉に居場所を失い、帰洛を命ぜられました。
 
 
平知康は、その命に従って帰洛したようですが、その後の動向はわかっていません。

 

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