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今回は三浦義澄の息子・三浦義村についてお伝えします。
 
 
彼は陰謀家と思われがちで、同時代の藤原定家も、中国の2人の名軍師の名を出してそれに匹敵するほどの権謀術数の人だと日記「明月記」に記しています。
 
 
三浦家を守るためなら友も身内も裏切るリアリストです。
 
 
だからこそ、この時代の武家として生き残ることができたともいえるでしょう。

 
 

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三浦義村の生い立ち

 

三浦義村(みうらよしむら)は、1168年に衣笠城主・三浦義澄伊東祐親(すけちか)の娘の間に次男として生まれました。(長男が戦死したため次男の義村が家督を相続)
 
 
北条義時や政子は母方の従兄弟に当たります。

 
 

「源平合戦」で源氏方で活躍

 

 
三浦義村は父の義澄に信頼され、源頼朝が挙兵すると、父とともに三浦党を率いて打倒平家の戦いに参加しました。
 
 
「一の谷の合戦」「壇ノ浦の合戦」「奥州征伐」で父とともに戦功を立て、頼朝の厚い信頼を得ます。
 
 
1199年、源頼朝が亡くなると、2代目鎌倉殿の源頼家を補佐するため、有力御家人13人による合議制がとられるようになりました。
 
 
義村の父・三浦義澄も幕府の重鎮として13人の一員に選ばれました
 
 
しかし、その一年後に父・義澄は病死し、義村が家督を相続して三浦家の当主となりました。

 
 

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事件の陰に義村の陰謀あり?

 

 
三浦義村は、頼朝亡き後に起こった様々な事件に関与したとみられています。
 

1.梶原景時の変(1200年)

 
 
13人の合議制発足から約半年後、梶原景時に謀反の罪を着せられると思い込んだ結城朝光が、三浦義村のもとに相談に駆け込みました。
 
 
そうして、彼らは梶原景時を疎ましく思う他の御家人たちの賛同を得、66人の御家人の連名で梶原景時への「弾劾状」を出すのに成功しました。
 
 
梶原景時は鎌倉を追放され、その後、上洛の途中に討ち死にしています。
 
 
三浦義澄は梶原景時の死後まもなく病死しているので、この事件のとき三浦氏を率いていたのは、すでに義村だったでしょう。

 
 

2.畠山重忠の乱(1205年)

 
 
畠山氏が滅亡したのは、畠山氏を疎ましく思う北条時政の陰謀によるものでした。三浦義村は時政の命で重忠の嫡男・重保しげやすを討伐しました。
 
 
また、その後、重忠が無実だったとわかり、重忠を陥れた稲毛重成(いなげしげなり)と榛谷重朝(はんがやしげとも)も討伐しました。
 
 
畠山重忠は、三浦義村にとって祖父・義明の仇です。

 
 

3.和田合戦(1213年)

 
 
2代目執権の北条義時に対する和田氏の謀反が発覚し、そのまま合戦へと発展したのが和田合戦です。
 
 
義村は従兄弟の和田義盛や和田氏に加勢した一部の三浦一族を裏切って北条義時に味方し、和田氏は滅亡しました。

 
 

4.源実朝の暗殺(1219年)

 
 
2代将軍・源頼家の子の公暁(くぎょう)に、叔父で第3代将軍の源実朝が暗殺される事件が起こりました。
 
 
三浦義村は公暁の乳母夫だったので、公暁は義村を頼りましたが、すぐに義村に殺害されました。
 
 
公暁をそそのかしたのは、実は三浦義村で、このとき北条義時も共に暗殺させる予定が失敗したため、公暁を切り捨てたと憶測されます。(義村黒幕説)
 
 
公暁討伐の功で、三浦義村は駿河守に任官しました。

 
 

5.承久の乱(1221年)

 
 
承久の乱の際、三浦義村は後鳥羽上皇の近臣だった弟の三浦胤義から北条義時討伐のための決起をうながされました。
 
 
しかし、義村は弟に味方せず、北条義時にその旨を伝え、鎌倉幕府軍の一員として弟の胤義を討ち取りました

 
 

宿老として鎌倉幕府に貢献する

 

 
承久の乱が終わり、北条義時、政子が亡くなると、三浦義村は幕府の重鎮として3代執権・北条泰時を補佐し、絶大な権力を持つようになりました。
 
 
そして、義村は1239年に病死します。家督を継いだのは息子の三浦泰村でした。
 
 
泰村は、北条泰時から「泰」の字をもらい、泰時の娘を妻として北条一門に入りました。
 
 
しかし、北条氏と並ぶ権力を持ってしまうと、北条氏との激突は避けられなくなります。1247年、「宝治合戦」で5代執権・北条時頼と戦い、三浦一族は敗れて没落していきました。
 
 
三浦一族は三浦義村の時代を最盛期として、次の代に一気に没落していったのです。

 

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