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こんにちは^^♪
今回もシリーズ【江戸】をお届けします。
 
第5代将軍・綱吉の時代、元禄時代になると、庶民の暮らしもどんどん豊かになってきます。
 
それまでの食事は、空腹を満たすもの、飢えをしのぐものでしたが、このころから、美味しさを楽しむというゆとりが生まれるのですね。
 
そうなると、美味しい物を作ろう、食べようと、どんどん食文化が花開きます。
 
ですから、外食産業が、大繁盛していくのでした!
 
外食の需要が増えるということは、その仕事にたずさわる人が増えるということで、景気の循環にもよいですね。
 
ということで、今回は、江戸の外食事情について、お伝えします。

 

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江戸は、深刻な男余り社会だった

 
 
江戸初期から天保期までの江戸の町は、男女比が2:1から3:1だったといわれます。
完全に男余りの社会です。
 
庶民の女性は、バツ2、バツ3は当たり前という感じで、離婚歴など全く次の結婚に差し支えませんでした。反対に、男性は、初婚でもなかなか相手が見つからないということがあったようです。
 
これは、江戸の女性が、仕事を持っていたので自立していたというのも関係していそうです。経済的に自立しているので、嫌になったらすぐ離婚できるのですね。そういう意味では、江戸庶民の女性は、かなり自分の生き方を自由に選べていそうです。
 
そんなわけで、江戸は男性の独身者の多い町でした。
それも外食産業が栄えた理由の一つといわれます。

 

「江戸わずらい」って何?白米が原因?

 
 
江戸の町は、白米が豊富でした。
それで、江戸庶民は、一日平均一人五合白米を食べていたといわれます。
 
現代人の約2~3倍ですよ。
 
白米は玄米に比べてビタミンB1の量が半分ほどです。
ですから、白米ばかり食べている江戸人は、脚気になりやすかったのでした。
 
江戸に居る侍が故郷に帰るとケロリとその症状が治まったため、当時は原因不明だったこの病は、「江戸わずらい」と呼ばれていました。
 
地方では、雑穀や玄米が主食だったので、ビタミンB1が摂れて、回復したのでしょうね。

 

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かつおだしとしょうゆ・味噌が基本に!

 

 
日本料理で用いられるだしは、かつお節昆布が基本です。
どちらも単独でうまみ成分が取れるので、美味しいおだしができます。
 
かつお節の前身は奈良時代にはできていましたが、現在同様のかつお節が作られるようになったのは、江戸時代初期です。
 
江戸では、昆布だしの元の昆布が手に入りにくかったので、かつおだしが主流になります。
 
そして、それに濃口しょうゆや味噌を加えて味付けをしました。
 
もう、現代の日本食のおかずと同じような味付けですね。

 

屋台は食文化の1つだった

 

 
時代劇を見ていると、うどん・そばなどの温かい汁物を売る屋台が出ていることがあります。冬の寒い夜に、温かいおそばや田楽と熱燗、いいですね♪
 
この温かい食べ物の屋台が登場するのは元禄時代です。
 
この頃になると、小型コンロのような「七輪」が普及したので、そば屋は、江戸のいたるところで見られる人気の屋台となりました。
 
麺類は、夏は、冷やしそうめんが、よく食べられました。
 
てんぷら屋も、屋台から始まります。
後に高級店もできましたが、庶民に人気の屋台食として定着していました。
 
すし屋も、店構えの鮨屋より屋台が好まれました。
人気があったのは、アナゴ、シラウオ、クルマエビ、玉子だったそうですよ。
 
マグロもありましたが、トロは脂っこくて嫌われていて、捨てられることが多かったそうです。
 
うーん、もったいないと思いますが、私もトロより赤身のほうが好きです。

 

 
その他に、スイーツ屋台も、たくさんあって繁盛していたようです。
だんご屋は庶民に人気で、いろんな種類のものが売られていました。
 
夏には心太(ところてん)や葛まんじゅう、冷水売りなどが大人気だったそうです。
「冷水売り」というのは、飲料水の「水売り」とは別物で、冷たい水に白砂糖と米粉で作った小さなだんごが入ったものです。
 
冷たい和スイーツ、美味しそうですね(´▽`*)

 

おわりに

 

 
江戸時代の都会の食事は、今の日本食と同じものが多いです。
つまり、元禄以降の江戸で、現代につながる食文化が出来上がったのです。
 
特に、和菓子は、今とほとんど同じですね。
 
それまで高価だった白砂糖が手に入りやすくなってから、様々な甘味のある和菓子が作られました。

 

 

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