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こんにちは。
今回は徳川5代将軍綱吉が発した悪法「生類憐みの令」について、少しくわしくお伝えします。
実はこの法令はもともと儒教に基づく福祉政策で、今の常識で考えても良い法令だったんですよ。
でも、なぜかどんどん妙な方向に進んでしまい、将軍(幕府)と江戸っ子(江戸庶民)の変な駆け引きみたいにエスカレートしてしまいました。
どこまで行っちゃったのか、後半で法令の一部をお伝えします。
目次
「生類憐みの令」ってそもそもどんな法令?
綱吉は、儒教の教えが大好きな将軍でした。
儒教には、人を思いやる気持ちを重んじる(仁)、親への感謝の気持ちを忘れない(孝)、文化や芸術を尊ぶ(文)などの教えがあります。
綱吉は戦国時代の常識をくつがえし、文治政治へと幕政をシフトしていった将軍なのです。
人殺しが英雄視される時代ではなく、殺人なんてとんでもない悪行という価値観に変えた将軍です。
「生類憐みの令」は、綱吉が「命を大切にしよう」と考えて発した130余りの法令の総称です。だから、「生類憐みの令」という1つの法令は存在しないのでした。
命を大事にしようという130以上も、お触れが出されたんですよ。
始めはごくごくまともな内容のお触れだったのです。でも、だんだんエスカレートしていきました。なぜでしょうね~。
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◆社会的弱者を保護しよう
「生類憐みの令」の始めのころの法令に、「老人、病人、子供など弱者をいたわろう」というものがあります。
また、当時はまだ寺などに捨てられる子供がたくさんいました。
彼は「捨て子」対策として、「見つけた者やその縁者がなるべく養育しよう、またその場合、お上に届ける必要はない」という法令も出しています。
まさに、孔子の儒学の教えどおりです。
学問や文化芸術が大好きだった綱吉は、江戸の町を「優しい文化的な町」にしたかったのだと思います。
◆飼馬を虐待するべからず!
江戸で暮らす幕府直属の旗本たちは、みな出陣の際に必要なので馬を飼っていましたが、この泰平の世では、馬にのる必要がなくなっていったのです。
また、旗本たちの生活はかなり貧しく、馬を飼うための財力がなくなったものも増えました。
それで、馬を捨てる武士がたくさんいたのです。
それもただ放置するのではなく、馬の脚の筋を切断して捨てたのです。完全に動物虐待ですね。
そんな残虐行為が続くのを許せなかった綱吉が「馬の愛護令」を出したのでした。
◆野良犬を殺すべからず!
当時、江戸町内には10万匹もの野良犬がうろついていました。
その野犬の多くは、大名屋敷内で飼われていた猟犬が、屋敷を抜け出して野生化したものだったのです。
たくさんの猟犬が野犬化して町をうろつくなんて社会問題ですよ。
実際に、野犬の群れに襲われて噛み殺される人がでたり、野犬を相手に刀の試し切りをしたり虐待する人間も現れたのです。
この社会問題をなんとかしようと考えたのが、「犬の愛護令」でした。
そして、綱吉は悪名高い「犬屋敷」を建設するのです。それは東京・中野の広大な土地の「犬屋敷」で、4万匹以上の野犬を収容したのです。
保護した犬には飼い犬同様に必要な水や食事も与えたので、当時の江戸庶民の感覚では「まったく呆れる話だよ」となったのでした。
でも、犬にも人間にも優しい町づくりという点ではブレていない法令だと思います。
それだけ野犬が減ったら、治安もよくなりますね。そして、庶民には動物を虐待してはいけないという価値観が植え付けられました。
◆だんだん笑える法令に?
綱吉が出した数々の「生き物の命を大事にしよう」というお触れは、道徳的なよい法令なのに背くものが続出します。
それにカチンときた綱吉は、町中で犬を虐待するものがいれば逮捕するよう見張り役を作りました。
また、虐待を見かけたら通報するようにという庶民同士を見張らせるお触れも出しました。
江戸っ子たちは「なんじゃそりゃ」という感じですが、時はバブルの真っただ中、みんなが浮かれている状態です。
そのうち、「金魚を池に放ってはいけない」、「魚釣り禁止」「、蚊を叩き殺してはダメ」というなんだか冗談のようなおもしろ法令が出てきました。
でも、この変なお触れ、どこまでが真実かわかりません。
なぜなら、綱吉の次の6代将軍・家宣と彼が重用した新井白石が「アンチ綱吉」だったからです。
6代将軍の時代に、綱吉の政策は悪法だったと強調された感じがするのです。
前代を下げることで自分を上げる戦法ですよ。
家宣は「生類憐みの令」を将軍就任後、即効廃止したといわれますが、福祉的な良い法令(お触れ)は残しています。
後世、悪名高い法令として伝わる「生類憐みの令」は、変なものもありましたが、江戸が治安の良い福祉的な町に転換していくきっかけになった良いお触れも多かったのです。
そうとらえると、綱吉はただのバカ殿ではなかったと思えるのでした。
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