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こんにちは。
 
 
今回は昔なつかし時代劇「暴れん坊将軍」で知られる徳川吉宗についてお伝えします。
 
 
吉宗は徳川御三家・紀州徳川家の四男だったのですが、なぜか目の上のたんこぶ的な人たちが次々と謎の急死を遂げ、一気に将軍にまで上り詰めた人です。
 
 
この人の周りは、死の香りが漂います。・・・怪しいですよ。
 
 
でも、彼の行った様々な改革で幕政が立ち直り、それから100年、江戸幕府が持ちこたえたのだという良い評価をされることが多いです。
 
 
光が強い分影(闇)も深いものですから、おそらくそういう人物だったのでしょう。
 
 
とても興味深い人物です・・・

 
 

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とんとん拍子で将軍になった徳川吉宗の不思議

 

 
徳川吉宗は、もともと紀州徳川家の四男でした。しかも、お母さんは殿様のお風呂係というとても身分の低い女性でした。
 
 
若い頃は、全然殿様(藩主)の子らしくなく、野山を駆け回って育ったそうです。
 
 
四男ですからね、順番からして紀州藩主にもまずなれないと自分も周りも思っていたでしょう。
 
 
ところが!
 
 
なぜか兄たちが次々に急死し、あっという間に紀州藩主の座が回ってきたのです。
 
 
紀州藩主に就任した吉宗は、紀州徳川家の財政立て直しに尽力しました。
 
 
質素倹約、節約して藩の貯金をふやそうといろいろな案を出したのです。
 
 
彼は自ら率先して粗食で過ごし、プレ「目安箱」のような箱をすでに紀州に設置して、庶民の声に耳を傾けようとしました。
 
 
そうこうするうちに、江戸では6代将軍家宣の子・7代将軍・家継がわずか7歳で亡くなってしまいました
 
 
とうとう徳川宗家の直系血筋が絶えてしまったのです。
 
 
こうして、徳川家直系が途絶えた場合のリスクヘッジ「徳川御三家」から将軍を出すというシステムが稼働したのです。
 
 
そして、第8代将軍に選ばれたのが徳川吉宗でした。
 
 
このとき、競合者だった尾張徳川家で、おまんじゅうを食べて急死したという不可解な変死者が出ています。
 
 
吉宗は母方の血筋が紀州の「忍び」という説があり、目ざわりな競合者を次々と暗殺していたのではないかという黒いうわさがささやかれます。
 
 
紀州の四男坊が、紀州藩主どころか江戸幕府の将軍様になったのですから不思議と疑われても仕方ありませんね。

 
 

新井白石・間部詮房はすぐ罷免(クビ)に!

 

 
当時の江戸幕府は、5代将軍・綱吉の頃から幕府の財政が厳しくなり、赤字財政におちいっていました。
 
 
それを、なんとかしようとして新井白石は「正徳の治」と呼ばれる改革を行ったのですが、赤字財政は改善されず、デフレを招いてしまいました。
 
 
これではいかんと思った吉宗は、新井白石と側用人の間部詮房を即罷免し、「正徳の治」の政策の多くを廃止しました。
 
 
そして、独自の思い切った幕政改革に着手していったのです。
 
 
その幕政改革が「享保の改革(きょうほうのかいかく)」と呼ばれるものです。
 
 
そうして、幕府の赤字財政立て直しにつとめた吉宗は、60歳のとき嫡男・家重(いえしげ)に将軍位を譲り、隠居しました。

 
 

「享保の改革」を分かりやすく解説!

 

 
徳川吉宗が行った「享保の改革」の内容をすっきり簡単に見ていきましょう。
 
 
当時の江戸幕府は、深刻な財政難に陥っていました。幕府の財政再建が享保の改革の大きな目的でした。
 
 
江戸幕府の「税金」は、原則として「年貢(ねんぐ)」と呼ばれるお米の現物納付でした。
 
 
そして、農民から取り立てた税金、つまり納められた「お米」を、武士は「お金」に換えて生活していたのです。
 
 
でも、お米の価値はその年の収穫量によって上がったり下がったりします。豊作の年はお米がたくさんできるので、その価値は下がることになりますね。
 
 
江戸中期は、農具の発達や新田開発などが進み、お米が以前よりたくさん収穫できるようになりました。つまり、お米の価値は下がる一方で、幕府に入って来るお金がどんどん減っていったのです。
 
 
そんな中、大きな財政改革が必要だと考えた吉宗は、厳しい改革を実行していきました。
 
 
農民にとって、かなり痛みを伴う改革案です。

 
 

◆「倹約令」~大奥も大リストラ!

 

 
幕府の赤字財政を少しでも改善するため、吉宗は自ら率先して質素な暮らしをしました。
 
 
贅沢をせず、着る物は紀州にいたときから丈夫で安価な「木綿(もめん)」のもの、食事は1日2回、一汁一菜と決めていたそうです。
 
 
そして、彼は幕府の財政を圧迫する「贅沢の温床」大奥改革に乗り出しました。
 
 
大奥はキャリア女子の集まりなので、一筋縄ではいきません。
 
 
そこで、まずは側室候補の「美女」ばかりを集めさせて、その者たちは器量よしなのでよい嫁ぎ先や働き口が見つかるだろうといって解雇したのです。
 
 
美女のお付きの女中たちも一挙にリストラすることができたので、もともと4000人以上いた人員を1300人ほど削減するのに成功したのでした。
 
 
大奥の無駄遣いはひどかったので、これはスッキリできたでしょう。

 
 

◆足高の制(たしだかのせい)

 

 
これまで江戸幕府では、幕府の要職につくためには、高い身分とある程度以上の石高が必要という決まりがありました。
 
 
そうすると、家柄だけがよい平凡な人が幕府の要職につく恐れがあります。
 
 
その慣例を改めたのが「足高の制(たしだかのせい)」でした。
 
 
これにより、低い身分でも実力のある者にはお米を支給して「石高」を保証し、重要な役職に就けるようにはからったのです。
 
 
改革には有能な人材が必要ですからね。
 
 
こうして大抜擢された中に「大岡裁き」で知られる大岡忠相(おおおかただすけ)がいます。
 
 
彼は旗本から大出世して大名にまで上り詰めました。昔なつかし時代劇「大岡越前」の主人公ですね~。

 
 

◆定免法(じょうめんほう)

 

 
吉宗の改革は、質素倹約につとめ、農民から取り立てる税金(年貢)を増やして財政を回復させようとするものでした。
 
 
彼は、」年貢高の徴集法を変えることにしました。
 
 
これまで年貢は収穫量によって左右される「検見法」で徴収していたのですが、吉宗は収穫量に関わらず税率を一定にする「定免法」に切り替えたのです。
 
 
こうして、幕府の税収は以前より安定しましたが、農民の年貢の負担はより厳しくなりました

 
 

◆上米の制(あげまいのせい)

 

 
「上米の制(あげまいのせい)」とは、幕府のお米の収入を増やすための政策です。
 
 
これは、大名から1万石につき100石のお米を幕府に献上させるという制度でした。「献上米」を納めた藩は、参勤交代の際に江戸滞在の期間が半年に短縮されるというメリットがありましたよ。

 
 

◆公事方御定書(くじかたおさだめがき)

 

 
刑事裁判を公平かつ迅速に行うため、これまでの判例をまとめたものが「公事方御定書」です。
 
 
罪に対する刑罰が確定され、奉行所での裁判の基準がはっきり決まりました。刑法の判例集です。
 
 
「公事方御定書」の対象となるのは幕府の直轄地だけでした。でも、その写本(コピー)が各地の大名たちに広がっていき全国的に採用されるようになりました。

 
 

◆目安箱(めやすばこ)

 

 
庶民の声を直接聞きたいと考えた吉宗が作った箱で、そこに庶民が意見を書いた「文」を入れることができました。
 
 
これにより、身分の低い町人や農民の意見・提案が幕府に届きやすくなったのです。
 
 
「江戸の町は火災が多いので町火消を組織化してはどうか」「医者が少なく高額なので貧しい人の通える病院を作ってほしい」、目安箱にはそのような町人の意見が届けられました。
 
 
それが町火消し組合の創設、小石川養生所の設置につながったのです。

 
 

「享保の改革」の残念な点

 

 
吉宗の改革は、支出をけずって収入を増やすことで、深刻な赤字財政を立て直すことでした。
 
 
「享保の改革」により、幕府の財政は確かに好転していきました。
 
 
でも、それは同時に民、とくに農民にとってとても厳しい痛みを伴う改革だったのです。
 
 
吉宗は「米将軍」と呼ばれるほど年貢の取り立ての厳しい将軍でした。
 
 
農民は年貢を四公六民から五公五民に引き上げられ、毎年同率の年貢を治めなけばならなかったので、凶作の年には飢餓に苦しめられることになりました。
 
 
そうして「百姓一揆」が増える原因を作ってしまったのです。

 
 

徳川吉宗の簡単年表

 

 
・1684年(0歳)
徳川吉宗・紀州で誕生
 
・1705年(20歳)
紀州藩主に就任。
 
・1716年(31歳)
第8代将軍に就任
→「享保の改革」を行う
 
・1745年(60歳)
吉宗隠居。
→嫡男・家重が9代将軍に。
 
・1751年(66歳)
吉宗死没。

 
 
 

おわりに

 

 
 
徳川吉宗の特徴について、最後にまとめておきますね。
 
 
吉宗の改革は痛みを伴うものでしたが、彼の改革がなかったら、江戸幕府は後100年持ちこたえることはできなかっただろうともいわれます。
 
 
傾いた財政をなんとか立て直す時期には、吉宗のような強いリーダーシップのあるトップが必要なのでしょう。
 
 
★紀州徳川家の4男だったのが、江戸幕府将軍に大出世!
 
★「享保の改革」で幕府の赤字財政を改善させた
 
★痛みを伴う改革だったので百姓一揆が増えた

 
 
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