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こんにちは。
犬将軍・5代綱吉の後を継いだのは、6代徳川家宣でした。
その家宣に仕えていた儒学者で、有名な「正徳の治(しょうとくのち)」を行ったのが、新井白石(1657-1725)です。
今日は新井白石の簡単な生い立ちと経済改革についてお伝えします。
目次
新井白石の生い立ち
新井白石(あらいはくせき)は旗本(武士)の息子として生まれました。
身分は低かったのですが、彼は幼いころからびっくりするほど賢く、儒学、漢学(漢詩)、言語学、歴史などさまざまな学問をあっという間にマスターしていきました。
とても賢い人に育った白石は、先生の木下順庵に推薦されて、当時甲府藩のお殿様だった後の6代将軍・家宣に仕えることになりました。
そうして、家宣が将軍に就任してからは、幕府のさまざまな改革を行っていくのです。
家宣とその息子の7代将軍・家継の時代までの約7年間、幕政で活躍しました。
「正徳の治」
江戸幕府の要職についた新井白石は、5代将軍・徳川綱吉の政治の見直しを図りました。
元禄時代はバブル期だったので、綱吉の時代はインフレが進みました。
その市場を落ち着かせようとして数々の改革をしたのが「正徳の治」です。
◆「生類憐みの令」の廃止
インフレ対策の前に、前代・綱吉の時代に社会を混乱させた「生類憐みの令」、これをまずは見直すことにしました。
「生類憐みの令」は、「生き物の命を大切にしようという」よい思想なのですが、すべての生き物の殺生を禁止というエスカレートしたものになりつつありました。
犬、猫、鳥などのペットだけでなく魚も蚊も殺してはいけないというルールまでできてしまっていたのです。
綱吉は自分の死後、「生類憐みの令」を100年続けるようにと側近に命じたそうですが、家宣は即位して10日後に即効廃止しています。
でも、廃止されたのは行き過ぎたもので、人(社会的弱者)・ペット・家畜に対するよいお触れは残されました。
◆「貨幣改鋳(かへいかいちゅう)」
江戸時代の貨幣(お金)には金や銀などの価値の高い貴金属がたくさん含まれていました。
貨幣をたくさん作るのに金銀がたくさんいるのは不経済ということで、綱吉の時代に貨幣に使う金や銀の含有量を一気に減らしたのです。
そうすると、より安い値段で貨幣を作ることはできますが、貨幣の価値が下がってしまいます。
するとどうなるかというと、インフレを引き起こしてしまうのです。
貨幣価値が下がると物価が上がってしまうので、景気が悪くなる原因になります。
それではどんどん不景気になるので、新井白石は貨幣に使う金銀の量をもっと多くして、貨幣の価値を上げるよう努めたのです。
そうしてできたのが「正徳小判」という貨幣です。
でも、貨幣の価値を再び変えたことで、社会は混乱しそうになりました。こういう経済政策は、なかなか実社会で成功させるのは難しいのです。
この対策はインフレ対策のつもりが、反対にデフレを引き起こす原因になってしまったのでした。
新井白石の貨幣改鋳は、実際にはあまり効果がなかったと評価されています。
◆「海舶互市新令」(かいはくごししんれい)
当時の日本は、長崎で清(中国)とオランダとだけ貿易を続けていました。長崎は幕府直轄地です。
そして、外国との貿易といっても、ほとんどが輸入でした。お金で外国の物を買うので、日本の貨幣が国外にたくさん出て行ったのです。
新井白石はこれに目をとめ、貨幣に含まれる日本の金銀がどんどん海外に流れてしまっているのはけしからんと考えました。
そうして、1715年に新しく制定したのが、「海舶互市新令」(かいはくごししんれい)です。
この法令は、日本の金銀の流出を防ぐため、清とオランダの船の貿易額を制限するものでした。
新井白石の性格・人柄は?
新井白石のエピソードから分かる人柄の特徴はこんな感じです。
↓
とにかく頭のいい人
火を噴くほど激怒する人
清廉潔白で生真面目
贅沢嫌いな倹約家
いろいろな逸話から垣間見えるのは、頭の良い人にありがちなすごく厳しくよく怒る人という像です。
実際に「鬼」「火の子」などと、あだ名されていたそうですよ。
3歳の頃、父親が読んでいた漢文の書物をすらすら書き写し、あまりに賢いので、朱子学者・木下順庵先生の塾に無料で入れたというエピソードがあります。
そして、その木下順庵先生の口利きで、後に6代将軍となる家宣に仕えることができたのでした。
頭の良さが出世の糸口になったんですね。
とはいえ、彼は身分の低い武士で、一介の儒学者でした。だから、改革案などは、幕府側用人・間部詮房(まなべあきふさ)をとおして将軍に伝わっていたようです。
新井白石の簡単年表
・1657年(0歳)
新井白石誕生
→「明暦の大火」の翌日に生まれる
・1693年(36歳)
甲府徳川家(徳川綱豊)に仕える
・1710年(53歳)
甲府藩主・徳川綱豊が第6代将軍・徳川家宣として即位。
→新井白石「正徳の治」(経済改革)を行う
・1716年(59歳)
徳川吉宗が第8代将軍に即位。
→新井白石・幕府から遠ざけられる
・1725年(68歳)
死没。
おわりに
新井白石の行った「正徳の治」がどんなものだったのかまとめておきます。
★「生類憐みの令」の廃止
★「貨幣改鋳」を行いデフレ対策に取り組んだ
★「海舶互市新令」(かいはくごししんれい)を制定
しかし!
これ以外にも、朝鮮通信史の接待費用を減らす令を出し公費の節約をしたり、年貢を増やしたりしました。
経済が停滞しつつある時期に年貢(税金)を増やされても、農民たちは生活苦におちいるだけです。
また、接待費などの節約は、贅沢を楽しみにしている内部からの反発も激しく、敵も多くなりました。
彼は生真面目で倹約家の学究肌の人間だったのでしょう。
彼の「正徳の治」は、有名ですがそんなに高評価はされていません。
もちろん、良い面もありましたが、インフレ対策に真面目に取り組んだところデフレを招いてしまったという、すごく中途半端な感じの改革でした。
「このまま赤字財政が続いては大変!」と思って、本気で構造改革をしたのが、その次の時代の8代将軍・徳川吉宗でした。
今後の社会問題の行方は、吉宗にゆだねられることになったのです。
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