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『風神雷神図屛風(ふうじんらいじんずびょうぶ)』で広く知られる俵屋宗達(たわらやそうたつ)。
京都のお寺には宗達の傑作がたくさん残っています。
そして、俵屋宗達を語るのに欠かせない人物が、今回ご紹介する本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)です。
彼は書の達人(光悦流の祖)であり、茶人であり、陶芸、絵画、作庭、能面、出版など数多くの芸術で名を残した日本のレオナルド・ダ・ビンチ、超一流のクリエイターでした。
本阿弥光悦と俵屋宗達が出会ったことで「琳派」が生まれたと言っても過言ではないでしょう。
それでは、まずは彼の生い立ちから見ていきましょう。
京都の刀剣鑑定の名家に生まれる
本阿弥光悦は、京都の名家、いわゆる上流の町衆の家に生まれました。室町幕府・足利尊氏の統治時代から、ずーっと刀剣鑑定を生業としていた名家です。
刀剣は、単なる刃物ではありません。一流の刀剣は刀身以外の鞘(さや)や鍔(つば)などに、木工、金工、漆工、皮細工、蒔絵、染織、螺鈿(貝細工)など、様々な達人技が注ぎ込まれています。
本阿弥光悦は、幼少期からそのような多くの優れた工芸品を見て育ち、高い見識眼を育んでいったのです。
やがて、光悦の父の代で本阿弥家は分家となり、彼はある程度自由に将来を選べる身になりました。
そうして彼はこれまで身に着けた工芸の知識と芸術センスをさらに磨き上げ、大好きだった書や和歌を取り入れた芸術作品を作るようになっていきました。
俵屋宗達との運命の出会い
40歳を超えたころ、本阿弥光悦はある若手絵師と運命的な出会いをします。
それが、大きな才能を持ちながらいまだ世に出る機会のなかった俵屋宗達(たわらやそうたつ)でした。
俵屋宗達の中にキラリと光るものを見出した光悦は、厳島神社の「平家納経」の修理をする際、宗達に声をかけて彼の本領を発揮できる場を作ってあげたのです。
俵屋宗達は、光悦の期待に見事にこたえました。
おそらく人間的な相性もよかったのでしょう。
光悦のプロデュースで、宗達はその後、どんどん才能が開花し、傑作を生みだすことになっていったのです。
光悦と宗達の見事なコラボレーション
それから、本阿弥光悦と俵屋宗達は本格的な合作に取り組みました。
「書の大家」だった光悦が、宗達の絵の上に達筆で和歌を書くという大胆な発想の作品です。これは大きなチャレンジでしたが、日本の芸術史にきらめく作品になりました。
中でもよく知られているのが、数々のグッズにもなっている『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』(つるずしたえわかかん)です。
この作品は宗達が下絵を描き、その上に光悦が「三十六歌仙」の和歌を書いた、天才2人のコラボ作品です。
宗達の絵は、無数の鶴だけを約15メートルにわたって配した大胆な構図でした。
それを受け取った光悦は、この書のどの場所にどのような大きさでどのような書体で墨を置けばこの絵を最高傑作に仕上げられるのか、考えに考えたでしょう。
そうして生み出されたのが、それまでの「書」には見られなかった、リズミカルに装飾化された「光悦流」と呼ばれる文字でした。
2人の合作は「書」と「絵画」の見事なコラボレーションです。
この絵は私も大好きで、京都国立博物館に行ったとき、ミュージアムショップで買ったチケット入れを今も使ってます。
かっこいいでしょう?
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裏もコラボ作品です♪
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晩年は郊外で芸術村を築いた
光悦が50代の頃は、「関ケ原の合戦」(1600)、「大阪の陣」(1614-1615)を経て、徳川政権が盤石なものとなりつつあった時代でした。
「大坂夏の陣」の後、光悦の茶道の師だった古田織部が、豊臣側だったことを理由に家康から自害を命じられます。
本阿弥光悦は、師に連座する形で京都の西北にある鷹ヶ峰という場所に追いやられたといわれます。でも、都から遠くなったことで、世俗を離れて作品作りに没頭できる、よい環境を得たともいえるでしょう。
実際、本阿弥光悦はそれから亡くなるまでの晩年を、この静かな山里で芸術に集中する日々を送りました。
彼は優れたクリエーターとして広く知られていたので、多くの芸術家たちが呼びかけに応じこの山里に集いました。
画家や巻絵師、金工、陶工など、いろんなジャンルの芸術家、そして、それらの芸術家の活動を支える紙屋、筆屋、織物屋などが集い、また風流を好むお金持ち(豪商)も屋敷をかまえるようになっていったのです。
本阿弥光悦は職人肌の芸術家ではなく、かなり社交的で人とのかかわりを大切にしていたようです。
彼の友人は芸術家だけでなく公家、武士、僧侶などいろんな身分、職業の人がいて、多くの知人・友人がこの光悦の芸術村を訪れ、暮らしていました。
この「光悦村」は、後に「日本のルネサンスの地」と呼ばれるようになりました。
俵屋宗達と共に「琳派」の創始者となった本阿弥光悦、彼らの精神は後に尾形光琳に受け継がれていきます。
日本の芸術に大きな影響を与えた本阿弥光悦は、この地で79歳の生涯を閉じました。