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こんにちは!
今回取り上げるのは明智光秀です。
歴史は勝者が作るもの、明智光秀は完全な敗者なので、彼が残した手紙など痕跡の多くは抹消されています。
さらに、若い頃にどこでどうしていたのかも、あまり知られていない人なんです。「本能寺の変」も動機がはっきりしないため、戦国最大の謎といわれています。
また、損傷が激しくて首実験での本人確認ができなかったため、生存説があり、徳川家に仕えた謎多き僧「天海」=「光秀」だという異説もあります。
ミステリーですね。(´・ω・)
目次
謎1 若い頃のことが知られていない
明智光秀が28歳のとき、一家が離散してしまい放浪の身になります。
それから朝倉義景に仕えるまでの間のことは、あまり分かっていないのですが、その間に、そうやったのか鉄砲などの武器の技術や教養を身につけたと思われるのです。
なぜなら、朝倉義景に仕えるようになったときにはすでに鉄砲の扱いは百発百中で、教養も深い優秀な武士だったといわれるからです。
どこで、どんな風に技術を学んだのでしょうね。
そんな有能な人物だったので、織田信長の信頼も、相当厚かったようですよ。
それは、年表からも、なんとなく分かると思います。
謎2 織田信長との関係
明智光秀は、織田信長に、たいへん信頼されていたようですが、光秀のほうはどうだったのでしょう?
光秀は柴田勝家などとは違って、信長に仕えるまでいろんな人に仕えてきました。
有能ではあったけれど、信長の軍の中では、新参者だったのです。でも、彼は生真面目で情け深い人だったので、信長だけでなく家臣たちからも信頼されていたといわれます。
真実かどうかは、結局、よく分かりません。
謎3 「明智光秀」=「南光坊天海」説?
本能寺の変の後、坂本城へと落ちのびる途中に、山崎の竹藪の中で光秀は落ち武者狩りで農民に殺されます。
その後、秀吉のもとに首が届けられたときには、どういうわけか顔の皮がはがされていたため、本人確認はできなかったといわれます。
そこから、もしかしたら明智光秀は生き延びているのではないかという、歴史のお約束ような生存説が登場するのです!
そして、徳川家康に仕えた謎多き僧「天海」が光秀なのではないかという説がささやかれています。
「戦国バサラ」でも、光秀と天海様は激似(CVも同じ人)でしたね^^♪ ゲーム(アニメ)のキャラでも、そうなってるってことは、かなり広まっている異説だとわかります。
「明智光秀=南光坊天海説」の5つの理由
明智光秀が天海だったのではないかという説の大きな根拠は、日光東照宮にあります。日光東照宮と言えば、徳川家康のお墓があって祀られているところですね。
この徳川家康がこの説のキーパーソンなのです。
理由1:日光に明智光の桔梗文など痕跡が残っている
日光には「明智平」と言う場所があります。この名前は天海自身が付けたと伝えられているのです。
また、日光東照宮に明智光秀の家紋「桔梗紋」がいたるところにあるのも、よく知られている事実です。
徳川家康の家紋は「葵紋」ですよね。
なぜ、家康を祀る東照宮に「桔梗紋」があるのか、明智光秀と結びつけないほうが不自然に思えませんか?
理由2:山崎の合戦のあと「光秀」が比叡山に石碑を寄進した
明智光秀が豊臣秀吉に敗れ死亡したとされる「山崎の合戦」の後、なぜか「光秀」と言う人物が比叡山に石碑を寄進しています。
もしかしたら近親者が彼の名で寄進したのかもしれません。でも、この事実から「山崎の合戦」以降の豊臣政権下で明智光秀はもしかしたら比叡山に身を隠していた(匿われていた)のではないかと憶測を呼んでいるのです。
確かに、徳川政権になるまでしばらくときがありますので、その間どこで何をしていたのかなと考えるとつじつまが合うようにも思えるのでしょう。
こうして、明智光秀はもともと同盟関係にあった徳川家康のもとで天海として働くことになったと推測されているのです。
理由3:春日局に「お久しぶり」と挨拶した
第3代将軍・徳川家光の乳母だった春日局と南光坊天海が初めて会ったとされるとき、なぜか彼らは「お久しぶりです」というあいさつを交わしたといわれます。
初めて合う人間に「お久しぶり」という言葉を投げかけることはないはずですよね。
このエピソードも天海が明智光秀だったという説の根拠の1つになっています。
理由4:光秀と天海の筆跡が酷似している
これがすごく面白い説なのですが、TBSテレビ「日立・世界・ふしぎ発見!」で、明智光秀と天海の遺した文字を筆跡鑑定したら、筆跡が酷似していると分かったのです。
「光秀=天海説」は面白いので、それからも何回かテレビ番組で取り上げられています。
プロ鑑定士の鑑定結果は、同一人物か極めて近い親類の人ではないかというものでした。
これでこの説の信ぴょう性がまたまた高まったかに見えましたが、ここにもう一つの仮説が浮かび上がってきたのです。
それが、天海=明智光秀の息子という仮説です。
南光坊天海は明智光秀の息子だったという仮説
「世界ふしぎ発見!」で明智光秀と天海の筆跡を鑑定したのは、本筆跡判断士協会会長で元警視庁委託筆跡鑑定人の森岡恒舟さんです。
彼はこのとき、2人の筆跡は「かなり似ている」と鑑定しています。
実際にその文字を素人が見たら、全然似ていないんですよ。でも、鑑定士の目をもってすると、筆の運びなどがかなり似ているのだそうです。
それでよく短絡的に「天海=明智光秀」とされがちなのですが、親子など近い親類の場合に筆跡が似ることがあるのだそうです。
つまり、この鑑定士は同一人物ではないと断定したともいえるのです。
そうすると、じゃあ一体誰なのかということで、この番組では「明智光秀の子といわれる本徳寺の住職」=「天海」」と結論付けたのです。
この説が正しいかどうかは誰にもわからないのですが、もし明智光秀が天海と同一人物だったとすると彼は100歳以上生きたことになるんですよ。この時代に、これほど長生きできるでしょうか?
つまり、ちょっと年齢がズレてるのです。
そういう点からも、明智光秀の子なら年齢的にも不自然ではないなーと思えるのでした。
真実はわかりませんが、もしも本当に明智光秀(かその息子)が徳川政権の初期の参謀だったとしたら・・・
すごい歴史のロマンだと思いませんか?
明智光秀の簡単な「年表」
年表を見ると、30代で朝倉義景に仕えるまでの若いころのことが、あまり知られていないと分かります。
つまり、前半生が、謎に包まれているんですね。
● 1528年(0歳)
美濃の斎藤道三の家臣、明智光隆の長男として誕生。
● 1556年(28歳)
斎藤道三の息子・斎藤義龍に明智城を攻められて、明智一家は離れ離れに。
光秀は浪人になり、その後、諸国を放浪する。
その後は・・・
浪人となって各地を転々としながら、鉄砲などの武器の技術や和歌などの教養を身につける。
その後、越前(福井県)の朝倉義景に仕える。
● 1568年(40歳)
朝倉義景は将軍家の復興に協力しなかったため、光秀は織田信長に近づく。
信長が了承し、信長と光秀は足利義昭と共に京都に上洛する。
足利義昭は朝廷に承認され、15代将軍となる。
この件の後、朝倉義景から織田信長に乗り換える。
● 1571年(43歳)
織田信長の命に従い、明智光秀が実行部隊として比叡山の焼き討ちを行う。
● 1572年(44歳)
信長から近江国の志賀郡(滋賀県)5万石を与えられる。
防備の拠点として琵琶湖岸に坂本城を築城、城主となる。
● 1573年(45歳)
越前国攻めを成功させる。
信長と共に、足利義昭(山城槇島城)を攻める。
義昭は敗北し、室町幕府は事実上滅亡する。
● 1577年(49歳)
信長に謀反を起こした松永久秀の居城・信貴山城を攻める。
松永久秀を破る。
● 1578年(50歳)
丹波国に亀山城を築城する。
坂本城と亀山城、二つの城の主に‼
● 1579年(51歳)
丹波国の波多野秀治、秀尚兄弟を攻めて落城させる。
光秀の働きで、織田家は丹後国を手に入れることに成功。
信長より丹波国一国の29万石を与えられ、織田家の近畿方面における司令官となる。
福知山城を築城し、娘の夫・明智秀満を城主とする。
● 1582年(54歳)
羽柴秀吉と共に、中国地方を攻めるように命じられる。
進軍の途中になぜか軍を引き返し、織田信長のいる本能寺を襲う。(本能寺の変)
信長はそこで自害。
知らせを聞いて中国地方から引き返してきた秀吉軍と戦って敗北する。(山崎の戦い)
逃げる途中、小栗栖の竹藪で農民に襲撃されて死亡。(享年55歳)