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「闇の勢力」とか「影の実力者」なんて言葉を聞くと、なんだかかっこよく感じませんか?
でも、同時に哀愁も感じます。
戦国時代に暗躍した「忍者」は、正史にあまり登場しないので、謎に満ちていますね。そこがまた、いいんですけどね^^♪
忍者と聞いて思い浮かぶのは・・・
手裏剣を使ったり足音なく忍び寄ったりするとか
変装の名人や睡眠術師がいたとか
伊賀忍者と甲賀忍者は敵対していたとか
服部半蔵の名前は知ってるよとか
こんな感じでしょうか。
忍者は、全国各地にいたようですが、今回は、あなたもよく知る「伊賀」と「甲賀」の忍者とその違いを紹介します。
忍者を初めて使ったのは聖徳太子?
忍者は、日本発祥といわれますが、インドや中国が発祥という説もあります。
日本で初めて忍者を使ったのは厩戸王(聖徳太子)だったという、言い伝えが残っていますよ。
でも、これは日本書紀(正史)には載っていないので、確証はないのです。というのも、現存する忍者の伝書の多くは、江戸時代に書かれたものだからなんです。
それ以前は「術」の多くが「秘伝」だったので、文書化されず口伝で伝えられていたのです。だから、なかなか表舞台に出なかったのですね。
忍者は戦時には傭兵として戦に参戦することが多かったので、あちらこちらで戦乱が起こっていた戦国時代に大活躍しました。
このころに戦国大名に仕えた伊賀と甲賀の忍者は、今もとても有名ですね。
伊賀と甲賀はそれぞれ三重県と滋賀県の間の山間部に位置し、山一つ隔てた場所に存在していました。伊賀の里と甲賀の里は、とても近い場所なのです。
伊賀と甲賀は、時代小説や時代劇で敵対関係やライバル関係として描かれることは多いですが、実際はどうだったのでしょう?
伊賀忍者
伊賀忍者といえば・・・
和田竜の小説「忍びの国」が、2017年夏に映画化されました。歴史小説の作家としては、すごく文章が読みやすいので、おススメですよ!
ちなみに「忍びの国」は、「天正伊賀の乱」という伊賀(伊賀忍者)と伊勢(織田信雄)の戦いを描いたものです。織田信雄というのは、信長のあまりできがよくないといわれている次男ですよ。
それについては、こちらでもお伝えしています。
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伊賀忍者の組織
伊賀忍者の里は、その名の通り三重県伊賀市の盆地にありました。
「忍びの国」では、伊賀の忍者は、自分の利益のためなら他人の生死はどうでもよい「銭のためならなんでもする」「ひとでなし」集団と設定されています。
どうしてそんなドライすぎる組織になってしまったのかというと、「上忍」と呼ばれる組織の特権階級が「下忍」と呼ばれる下層階級を道具のように扱う風習があったからです。
伊賀の共同体は、いくつかの「上忍」と呼ばれる有力者の家系が、大きな権力を持って独占していました。
その中でも、服部氏・百地氏・藤林氏は、「伊賀上忍三家」と呼ばれ、大きな決定権を持っていたのです。
戦国時代は、大名などから組織に依頼があれば、傭兵として「下忍」を派遣するという形をとっていました。
「下忍」は普段は農耕にいそしむ、小作人のような労働者です。彼らは里を勝手に出ることが許されておらず(抜け忍禁止)、術を体得するために幼少期から厳しい特訓を受けました。
複数の大名と契約を結ぶこともたくさんあったので、戦で戦っている両軍から要請があったときは、両方の依頼にそって「下忍」を派遣たのです。
同じ里の「下忍」が敵同士になってもおかまいなしです。
すごくビジネスライクな割り切り方ですね。
「上忍」は「下忍」のことを感情のある人ではなく自分たちが扱う商売道具「人間兵器」と思っていたのかもしれません。
そんな組織で生まれ育った「下忍」たちは、仲間意識がかなり薄くまったくなかった者もたくさんいたのかもしれません。でも、だからこそ雇い主から信用されていたのでしょう。
伊賀忍者の忍術
忍者といわれると、あなたはどんな姿を思い浮かべるでしょう?
おそらくあなたが今思い浮かべた忍者の姿は、伊賀忍者にもっとも近いです。 それだけ、伊賀の忍者は一般に広く知られているんです。
伊賀忍者は、厳しい修行を続けて「技」を体得していきました。
彼らの得意技は、ズバリ「呪術」と「火術」です。
忍者が両手で印を結んで呪文を唱えるシーンを、映画やアニメで見たことがないでしょうか?
あれは「九字護身法」などと呼ばれる伊賀忍術なのです。伊賀忍者は、手品を使って人心を惑わせたり、催眠術を使ったりする、かなりうさん臭い技を得意としていました。
また、伊賀忍者は「火」の扱いに長けていたことでも知られています。亡命者などから火薬の調合に関する知識を得て、火の性質に精通していたのです。
いわゆる「火遁(かとん)の術」が得意で、「火薬玉」を爆発させて姿を消す技を使いました。「火薬玉」というのは、忍者が敵に見つかって襲われ逃げるときにお約束のようにやる退却方法ですね。
伊賀の里は、「第二次天正伊賀の乱」で織田信長と戦って、壊滅的な被害を受けました。(忍者なので、うまく落ちのびた者も多かったようですけど。)
その後は、かなり里の力は衰えてしまったのですが、「本能寺の変」の際、堺にいた徳川家康を三河まで護送するという仕事で、徳川家との縁ができました。
家康の「伊賀越え」のエピソードとしてたびたび取り上げられますね。そのときに活躍したのが、上忍三家の末裔・服部半蔵だったのです。
この家康の護衛は、服部半蔵の呼びかけで300人余りの忍者が駆けつけたといわれますよ。それ徳川家康は無事に三河に帰ることができたのです。
この1件以降、徳川家康は服部半蔵を忍軍の頭領に任命して、多くの忍者を雇うようになっていったのです。
このように、伊賀忍者は徳川家康が天下を取る前から徳川氏に仕えていたので、当時、天下人だった豊臣氏に仕えていた甲賀と敵対関係の仕事を追うことが多かったのでした。
この当時の関係から、伊賀VS甲賀の図式が生まれたと思われます。
でも、実際はどちらも「依頼主」の依頼に従っていただけで、忍者同士としての敵対感駅にはなかったと思われるのです。
どちらかというと、伊賀と甲賀は、普段はそれなりの協調関係を保っていたようです。きっとそのほうが両者にとって「利」があったからでしょう。
伊賀忍者は、その後、江戸幕府と伊賀地方の領主・藤堂家に仕えることになっていきます。
甲賀忍者
「甲賀の里」は、今の滋賀県甲賀市、湖南市にありました。
こちらは、全国的には伊賀に比べて知名度が低いですね。
甲賀は伊賀よりも少し開けた土地にあったので、昔から里には外部からの人の出入りがありました。
そういう地理的な違いが、両者の特徴に違いを生んでいったのです。
甲賀忍者の組織
甲賀忍者たちは、普段は農業活動をしたり行商をしながら各地の情報を探る諜報活動をしていました。そして、いったん指令が下ると、戦場で工作活動に取り組んだのです。
甲賀には「惣」と呼ばれる共同体組織があり、集落内の豪族の立場は対等に近かったのでした。そして、意思決定は多数決による合議制でした。
この時代には珍しい、民主主義的な組織運営だったのです。伊賀とはえらい違い、対照的ですね。
甲賀忍者は、もともと近江の佐々木六角氏の下で働く地侍の集団でした。
なので、傭兵というより1つの大名の元で働くことが多かったのです。
伊賀と違って里から抜ける(抜け忍)のも自由という風通しの良い組織だったというのが、まだまともですね。
。
甲賀忍者は、六角氏が滅びた後は織田氏に仕え、そのまま天下を取った豊臣氏、徳川氏に仕えていきます。
甲賀忍者の忍術
甲賀忍者の特技は、「毒薬」を使った術と、「手妻」でした。
「手妻」というのは、手品のように素早く手を動かして人心を惑わす術です。甲賀忍者が「薬」の扱いに長けていたのは、外部との交流が比較的多かったからといわれます。ですから、行商として活動するときは、「薬売り」をすることが多かったようですよ。
甲賀市には、今もその名残として、製薬会社がたくさんあるのです。おもしろいですね。
伊賀が「第二次天正伊賀の乱」で壊滅的打撃を受けたのに対し、甲賀は、織田信長とは穏やかな関係を築きました。
その後、豊臣氏、徳川氏と仕える主を変えていきますが、江戸時代になり平和な社会になっていくと次第に衰退していったのです。
まとめ
★ 伊賀と甲賀の関係
● 伊賀と甲賀は、三重と滋賀にあり、山一つ隔てて隣り合っていた。
● 普段は、協調関係を築いていたので、里同士が敵対していたわけではない
● 依頼者の意向に従う傭兵業だったので、職務上、敵対することはあった
★伊賀忍者の特徴
● 伊賀の里は、三重県伊賀市
● 呪術・火術に優れていた
● 伊賀は、上忍が下忍を従えた厳しい身分社会だった
● もともと仕える大名を持たない傭兵家業が主だった
● 伊賀の里は、織田信長に敗れ、壊滅的な被害を受ける
● 伊賀忍者は、徳川家康の「伊賀越え」を護衛し、徳川家に仕えるようになった
★ 甲賀忍者の特徴
● 甲賀の里は、滋賀県甲賀市
● 手妻と毒薬を使う術が優れていた
● 多数決で議決する民主主義的な集落だった
● 六角氏→織田氏→豊臣氏→徳川氏と天下をとった大名に仕えた
山一つ隔てた場所に合った同じ「忍者の里」なのに、とても対照的なところが興味深いですね。
忍者の歴史は日本史の裏歴史になるので、くわしいことは分からないのでしょうけど、そこがまたおもしろいところなのだと思います。(*’▽’)
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