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こんにちは。
今回は、戦国のビッグカップル・・・
じゃなかった、ビッグな主従、伊達政宗と片倉小十郎(景綱)について。
彼がいなかったら政宗はやらかしたピンチを乗り越えることはできなかっただろうと言われるほど、片倉小十郎は優れた軍師でした。
この2人、どちらもすごく「デキる人」でありながら、まつわる逸話がおもしろすぎです。
いろんな意味で濃すぎる関係なのでした。
では、2人の関係について、真面目にお伝えします!
目次
伊達政宗の価値観は片倉姉弟に育まれた?
伊達政宗と片倉小十郎(景綱)との出会いは、政宗が5歳ぐらいの頃、まだ梵天丸(ぼんてんまる)と呼ばれていころでした。
ちょうどその一年前、政宗は疱瘡(天然痘)を患いすごい内気な子供になってしまったといわれます。
心配した父親の輝宗が、高名な禅僧を家庭教師に招き、この片倉小十郎を「傅役(もりやく)」として世話係に取り立てたのでした。
武家では家督を継ぐ嫡男は、母親から離されて男の「世話係」をつけてトップになるべく教育を受けました。
片倉小十郎、片倉景綱という2通りの呼び方があるのは、「小十郎」が通称で「景綱」が諱(いみな)だからです。
諱(いみな)は本名ですが、この時代、人を諱で呼ぶことはまずなかった(公文書で名前を書くとき使った)ので、普段の呼び名は「小十郎」だったと思われます。
そして、片倉家は代々嫡男のあだ名が「小十郎」でした。なので、後で出てくる景綱の息子、重長も「小十郎」なのです。
パパの方が有名なので、「片倉小十郎」といえば「景綱」のほうを指すことが多いです。
景綱が政宗の「傅役(もりやく)」に選ばれた時、まだ19歳ぐらいでした。嫡男の「教育係」にするには、若いですね。
また、景綱には、年の離れた姉がいて、その「喜多」という姉が、政宗の乳母だった女性なのです。
「乳母」と「傅役」・・・・
幼児期の政宗に物の見方や考え方を教えたのが、この「片倉姉弟」だったということですよ。
片倉家は伊達の家臣で、「神職」を兼ねた武家です。でも、家格は中堅で、嫡男のそばでお仕えできるような名門ではありません。
そんな2人を抜擢したのが、政宗の父親の伊達輝宗だったのでした。きっと、この姉弟に何かビビッとくるものがあったのでしょう。
政宗の飛び出た目玉をえぐり取った?
伊達政宗の幼少期の逸話で、おそらく最も有名なのがこの疱瘡で片目が失明したエピソードでしょう。
政宗は4歳のとき疱瘡(天然痘)にかかりました。そのとき右目を侵されて目の周りの肉が盛り上がり、目玉が飛び出た状態だったそうです。
昔は多くの人が疱瘡にかかりましたが、顔に「あばた」が残るだけでなく目玉が飛び出してるというのは、かなりコワイ容貌です。(真実かどうかは不明ですよ、あくまで逸話)
そんな状態だったので、もともと引っ込み思案だった梵天丸(政宗)は、すごく内気で卑屈な子供になってしまいました。(しつこいけど、あくまで逸話ですよ)
で、そんな梵天丸にイラっときた景綱は、ある日、その目玉をグリッとえぐり取ってしまったのです。
衛生状態が悪く麻酔もない時代に・・・
当然、梵天丸は大変なことになりました。何日も高熱が続き、生死の境目をさまよいました。まだ幼いですしね。かなり危険だったでしょう。
もしも政宗がそのまま死んでしまったら、もちろん景綱は責任をとって自害するつもりだったようですけど、とにかく思い切りのよい人です。
ま、それで政宗はかなり明るくなったといわれるので、一応ハッピーエンドな話なのでした。
成長した伊達政宗は、周りがびっくりするような事をしでかすことがありましたが、それもこれも景綱の影響なのかもしれません。
オデキは焼き切るのがベスト?自分で試した小十郎
あるとき、政宗は脇腹に出来物ができて苦しんでいました。当時、そういうのは焼いた鉄の棒で焼き切るのがベストな治療法とされていました。
さすがに、変な人には頼めないので(というか医者はいないのかな)政宗は景綱に頼むことにしました。
片倉景綱は「忠義」の人です。
主君の脇腹に焼いた鉄を当てるなんて恐れ多いこと、もしものことがあっては大変ですね。
どれほどの痛みがあってどれほどダメージを受けるのか、気になった景綱は、真っ赤に焼けた鉄棒をまず無傷の自分のスネにジューッと押し当てて確かめたのでした。
そして、大丈夫だと自分の身で確認してから、政宗に処置を施したそうです。
うーん、主君としてはこういう心遣いはじーんですね。出来物は無事に治り、主従の絆も深まったのです。めでたしめでたし。
主君より先に子は成せぬ!男子なら殺す!
片倉小十郎(景綱)は結婚して、やがて妻が懐妊しました。
彼は政宗より10歳以上年上なので、結婚するのも子供が生まれるのも政宗より早くて当然ですね。当時の人だって、普通はそう考えます。
でも、忠義一筋・主君第一主義の景綱だけは、そう考えなかったのです。
そんな彼が妻に言ったのが、この一言。
「主君より先に子をもうけるわけにはいかない、生まれてくる子が男ならば殺すように」
この人、めちゃくちゃ賢い人なはずなのに、ネジが1本外れてます。
そのことを聞いた政宗はびっくりして、急いで手紙を書いて届けさせました。政宗は手紙魔なので、書くのは早いですよ。
「はやまるんじゃない!絶対ダメ!息子を殺したら、オレがお前を許さんからな!」
このとき書いた手紙は、今も残っています。
なぜ残ってるのかというと、手紙魔の政宗から届く数々の手紙やメモを、景綱がぜーんぶ大事に保管していたからです。
その手紙を読んで景綱は思い止まり、子供は無事に生まれました。男の子でしたよ。
その子が次にお伝えする政宗の最愛の小姓・片倉(小十郎)重長なのです。
殺さなくてよかったですね。
景綱の息子が政宗最愛の小姓に!
誕生の時から主君を翻弄していた景綱の長男・(小十郎)重長は、すくすく育ってびっくりするほどの美少年になりました。
政宗溺愛です。父が右腕で本人がすごい美形ともなれば、そりゃそうだろって思いますけど。
「話盛ってる?」と言われそうですが、いえいえ彼の場合、本気で他の大名から口説かれた話がいくつか残っているのですよ。
東北特有の白く透き通った肌に濡れ羽色のつややかな黒髪、父親譲りの凛とした澄んだ瞳、そんな彼に戦国武将たちはコロッとやられてしまったのです。
1601年、「関ヶ原の戦い」の後、政宗は重長を小姓として父・景綱とともに、京都に連れて行きました。
彼を見た諸大名は、みなその美しさに驚いて、政宗のことをうらやましがったそうです。
特にご執心だったのがあの「関ケ原」で大活躍?した小早川秀秋で、重長を本気で追いかけまわしていたそうです。
小早川秀秋も10代なので若気の至り的なものかもしれませんが、結構ヘビーなストーカーです。
あまりのしつこさに嫌気がさした重長は、そのまま東山九条の「東福寺」に立てこもりました。恐怖を感じたのでしょう。
それに対して、主君の政宗がどうしたのかというと・・・
秀秋に気を遣ってとんでもない手紙を重長に送っていたのでした。(また手紙)
「嫌なのはわかるけどさ、一晩だけでいいから。オレの顔を立てて京都(秀秋のもと)に行ってよ。主命のためなら親の首でも斬るって言うだろ?」
Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン
自分の小姓(愛人)をストーカーに売ろうとしてるよ。
それも親の首って、親って小十郎(景綱)なんですけど、いや、景綱なら息子に「さっさと秀秋のとこに行かんかい!」とか言いそうですけど。
小姓の貞操ってそんなに軽かったの?
その後、重長がどうなったかは記録に残っていません。(なぜここだけ残ってないのか気になりますけど)
でもまあ、小早川秀秋は、その年の内に「関ケ原の裏切り」で大谷吉継や宇喜多秀家に祟られ急死してしまいました。
本当の死因は、アル中からの肝硬変だったというのが有力説です。
でも、20歳そこそこでアル中とか肝硬変とかいうのも、やっぱり違和感を感じますね。ひどいストレスがかかっていたのは確かでしょう。
ま、小早川秀秋がいなくなって、重長はほっと一安心だったでしょうね。
それから時が経ち1615年、戦国最後の戦い「大坂夏の陣」が起こりました。
このとき片倉重長は30歳、勇猛な武将に成長していました。
そして、父の片倉景綱は、大事なときは必ず政宗の右目として付き従っていた小十郎は、病で死の床についていたのです。
「大坂の陣参戦」を聞いた息子の重長は、仙台城に駆け付け「是非、私を先鋒にしてください」と主君に願い出ました。
その言葉を聞いた政宗は、彼の手を取って引き寄せ、ほほに口づけした後「お前以外の誰に任せられるというのだ」と涙ながらにこたえたのでした。
政宗の優しさに重長は大いに感激し、涙を流して奮戦を誓ったとのことです。
確かに、「大坂夏の陣」で、めっちゃ活躍しましたよ。
この「ほっぺにチュッ」と「秀秋のストーカー事件」は、『片倉代々記』の中の『二代重長譜』に記されています。
片倉家の記録なので話は盛られてるかもしれませんが、真面目に書かれて残っているところがおもしろいです。
おわりに
伊達政宗と片倉小十郎(景綱)の逸話についてお伝えするつもりでしたが、片倉親子メインになっちゃいましたね。
主君もおもしろエピソードをたくさん残してますが、この軍師親子もなかなかです。
伊達家はおもしろ逸話が多くて、楽しいのでした。
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