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こんにちは。
 
 
戦国時代の武将にとって、兜(よろい)や鎧(かぶと)は、身を守る武具というのは確かなのですが、もう1つ大事な役目がありました。
 
 
それは、鎧兜(よろいかぶと)が「自分のキャラ(アイデンティティ)」を表す大事なアイテムだったという事です。
 
 
戦国武将は目立ってなんぼ!
 
 
なので、皆さん思考を重ねて目を引くおもしろデザインを考えています。
 
 
ダサいなーと思える変なデザインのが多い中、ひときわスタイリッシュでシックモダンを感じさせるのが伊達政宗の兜(かぶと)でしょう!!!(←好みなだけです)
 
 
つやつやした真っ黒な塗りの兜(かぶと)に黄金色に輝く「三日月」・・・
 
 
ああ、かっこいい・・・
 
 
「アシンメトリー(非対称)の美」ですね。日本人の感性にグサッと突き刺さります。
 
 
あの三日月、よく見かける模造の兜はデフォルメされてかっこよく伸びてますが、本物はどんな感じだったんでしょうね。
 
 
で、そもそもなぜ「三日月」なのでしょう。いろいろ気になること満載です!

 
 

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三日月のマークに込められた思いとは

 

 
伊達政宗の兜の前立ては、大きな三日月モチーフです。
 
 
戦国武将は、月だけでなく太陽(日輪)や星など天体をモチーフにしたトレードマークを使うことが多かったのです。
 
 
天体は神につうじるものなので、神様のご加護をという意味が大きかったのです。

 
 

(1)戦いの神「妙見菩薩」のご加護を願った?

 

 
当時、戦国武将の間で月や星などの天体を信仰する「妙見信仰」というのが流行っていました。武将たちは頭上で輝き沈むことのない「北極星」を神格化し「妙見菩薩」に武運を祈願したのです。
 
 
「妙見菩薩」は戦いの守護者で、そのシンボルの1つが「月」でした。
 
 
伊達家の兜の「三日月の前立て」を考えたのは、政宗ではなくその父の輝宗だったともいわれます。
 
 
輝宗は政宗が生まれたとき、息子の旗印を「白地に赤丸」と決めました。
 
 
「白地赤日の丸旗」と呼ばれる旗印は、そのイメージ通り丸い太陽をモチーフにしています。日本の国旗に似てます。
 
 
輝宗はその旗印の「日」と対になるように、兜の前立てを「月」に決めたのです。
 
 
「太陽と月」という地球をめぐる主要な天体2つをシンボルとして取り入れることで、輝宗は我が子に神仏の守護を願ったのでしょう。
 
 
月が満月でなく三日月にしたというのも素敵ですね。
 
 
まず、満月だったら旗印の太陽の丸とかぶるというのもあったでしょうけど、三日月はこれから満ちていく希望、可能性を感じさせる形です。そして、兜の前立てにしてはかなり大きい立派なサイズです。
 
 
若い息子の成長を願ってのことでしょうね。
 
 
いいお父さんだなぁ・・・
なのに、悲しい最期を迎えてしまいました。
 
 
優しいぶん、甘さがあったのでしょうか?
 
 
とにもかくにも、伊達政宗の兜の大きな三日月の前立ては、息子の成長と神仏の加護を願った父の想いが込められていたかもしれないのでした。(いい話ですが異説ありです)

 

 

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(2)2代目以降は三日月でなく半月に変わった

 

 
伊達家のあの兜(かぶと)は、デザイン性が高いだけでなく、実用性もバッチリ考えて作られています。
 
 
細長い鉄板を重ね合わせて強度を高め、さらに上から黒漆(くろうるし)を塗ってツヤを出しているのです。だからツヤツヤなんですね。
 
 
そして、デザインはシャープでとても印象深いです。シンプルモダンな雰囲気なので洗練されてますね。
 
 
この鎧(よろい)には、「宗久」という「銘」が記されています。
 
 
戦用の具足は兜と鎧(よろい)がセットになっていますが、この兜にもセットの胴具(鎧)がありました。
 
 
5枚の鉄板を使って仕上げた胴を用いたその具足は「黒漆五枚胴具足」と呼ばれ、仙台藩伊達家の歴代当主や家臣にも受け継がれました。
 
 
月をモチーフにした前立ての兜も、もちろん代々受け継がれました。
 
 
でも、2代目以降の仙台藩当主の前立ては、「三日月」ではなく「弦月(半月)」に変わっています。
 
 
引き絞った弓のように見えることから「弓張月」とも呼ばれます。平和になった江戸時代でも戦を忘れない覚悟を示しているのかもしれません。

 
 

伊達政宗の兜は4つも現存していた!

 

 
伊達政宗の兜(よろい)は、4領現存しています。
 
 
1領目は仙台伊達家に代々受け継がれてきた具足で、1951年、仙台市に寄贈されました。これは現在、仙台市博物館が所蔵しています。
 
 
2領目は家臣の菅野正左衛門重成が拝領したとされる具足で、これも仙台市博物館に保存されています。
 
 
3領目は岩手県の水沢駒形神社が所蔵する具足で、これも伊達政宗のものだったと伝えられています。
 
 
そして、4領目の具足は、1974年に行われた伊達家墓所の発掘で発見されました。
 
 
伊達政宗の墓所は現宮城県仙台市にある瑞鳳殿(ずいほうでん)です。
 
 
瑞鳳殿は太平洋戦争で焼失してしまい、その後、仙台市が再建しました。その再建に先立って、墓所の発掘調査が行われたのです。
 
 
そのとき、伊達政宗のほぼ完全な遺骨と一緒に多くの埋葬品が出土されました。伊達政宗の血液型も、このとき分かりました。「B型」です!(納得)
 
 
そして、その中に伊達政宗の物と思われる「兜を含めた具足が一式」も納められていたのでした。
 
 
その具足は政宗が19歳のときに参戦した「人取橋の戦い」のときに着用したものではないかと言われています。
 
 
すごいです!
 
 
これが正しければ、家臣にあげたのではなく「政宗自身」が実際に着用して戦った具足だったという証拠になります。
 
 
つまり、この発掘調査の結果、「三日月の前立ての兜」が大将の伊達政宗専用のデザインだったと確定できたのです。

 
 

実物は2領「仙台博物館」にある!

 

 
伊達家に伝わるあの兜のうち、もっとも有名なのは1領目で紹介した代々伊達家に伝わる兜です。
 
 
この兜は鎧とともに「黒漆五枚胴具足(くろうるしごまいどうぐそく)」という正式名称で、現在、仙台市博物館に展示されていますよ。
 
 
桃山時代の作で、重要文化財に指定されています。
 
 
展示期間は限られているようなので、訪れる場合は事前に確認してください。
 
 
さらに、2領目でご紹介した菅野正左衛門重成が拝領した兜も、仙台博物館にあります。
 
 
こちらは、「銘」が「明珎信家」とあり、前述のものとは違うと分かります。
 
 
こちらも通年展示ではないので、博物館を訪れる場合は、展示されているか確認してください。

 
 
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