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こんにちは。
 
 
今回は、一時織田信長の元にもあったとも言われる、伊達政宗ゆかりの刀剣「燭台切光忠」(しょくだいきりみつただ)について!
 
 
「燭台切光忠」は、「長船派」の名刀です。
 
 
信長の元にあったとされるのは、信長がこの「長船派」の刀が大のお気に入りだったからというのもあったのでした。

 
 

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「燭台ごと人をスパッと斬った」実戦向きの刀剣

 

 
はじめに「燭台切光忠」とはどんな刀剣かお伝えしますね。
 
 
「燭台切光忠」は鎌倉時代の長船派の祖・光忠という刀工が作った太刀です。
 
 
伊達家に来る前の来歴は、実ははっきり分かっていません。
 
 
織田信長豊臣秀吉が所有した時期があったという説もありますが、はっきりしていません。
 
 
「燭台切」という「号」は伊達政宗が家臣を手打ちにしたとき、そばにあった青銅製の燭台も一緒にスパッと切れた事に由来します。
 
 
戦国大名は無礼打ちが多いですね~。恐ろしい・・・
 
 
そして、「変な物」を切ったのがそのまま「号」になる刀剣も多くておもしろいです。
 
 
「薬研」「へし切」「鬼切」「童子切」などなど・・・
 
 
織田信長は実戦向きの「長船派」(光忠の作った刀)が大好きで、集めまくっていました。(本能寺で最後に握っていたのも長船派の刀「実休光忠」だった)
 
 
そして、「燭台切光忠」は太刀から打刀に磨り上げられ、約2尺2寸(約83.6㎝)の長さに変えられています
 
 
織田信長は、よく太刀を自分好みの長さ「約2尺2寸」に磨り上げたのです。
 
 
そこから「燭台切り光忠」は「信長が持ってたことがあり、太刀から打刀に磨り上げた可能性が高い」と、考えられるのでした。

 
 

関東大震災で焼け「現存しない」と思われていた!

 
 
この刀はこれまで刀剣ファンの間で、「関東大震災で焼失し現存しない」と思われていました。
 
 
ところが、2015年、刀剣擬人化育成ゲーム「刀剣乱舞」が大ブームになり、「燭台切光忠は、ほんっとーに現存してないの?」と審神者(ゲームプレーヤー)から博物館へお問い合わせが殺到したそうです。
 
 
(「刀剣乱舞」の燭台切光忠は伊達政宗の具現化か?というような姿をしてます。)↓
    

 
 
それを受けて、茨城県水戸市にある「徳川ミュージアム」が調べ直したところ、確かに関東大震災で焼けたけれど、焼失したのではなく「被災刀として現存していた」と分かったのでした。
 
 
徳川ミュージアムは、2018年5月17日に限定で被災した「燭台切光忠」の展示を行いました。
 
 
ある方がアップしてくれてます↓

 

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「被災刀」は刀身が焼け焦げているので、美術品としての価値はすごく低い、というか、まず価値はありません。
 
 
おそらくその理由で,「燭台切光忠」は「刀剣乱舞」(ゲーム)で注目されるまで忘れ去られていたのです。博物館の広報は、現存していたのは確認していたけれど、話題にならなかっただけだったと伝えています。
 
 
「燭台切光忠」は刀の形がそのまま残っていることから、直接火で焼けたのではなく、関東大震災の火災のあと、保管されていた蔵を開けたときに、バックドラフトを起こして蒸し焼きになったのではないかと推測されてます。
 
 
よく見ると、熱で鎺(はばき)が解けて刀身に癒着しているのだそうです。「金の鎺」をつけて白鞘に納めた状態で「蔵」の中にあったと思われるのでした。

 
 

名刀「燭台切光忠」の「写し」が作られた!

 

 
こうして「燭台切光忠」は再注目され、世の中に大きな動きが生まれていったのでした。
 
 
2016年に徳川ミュージアム「刀剣プロジェクト」の始動を開始しました。
 
 
その「刀剣プロジェクト」の1つとして、「被災刀」の詳細調査が始まりました。そして、同時に審神者たちによる寄付が集まりはじめたのです。(いっぱい集まりそうですね・・・)
 
 
そうして、今度は「燭台切光忠」の姿を蘇らせる再現刀「写し」を作刀しようという運びになったのでした。
 
 
「写し」は手口が悪質な「贋作」(がんさく)とは、全く別物です。
 
 
ある日本刀(「本歌」または「本科」)の寸法などを手本にして、それを忠実に再現したものが「写し」と呼ばれる刀剣なのです。
 
 
そして、2018年1月、「燭台切光忠」の「写し」が完成し、徳川ミュージアムでお披露目されました。
 
 
行きたかったけど、行けなかった・・・(泣)

 


  ↑
画像でも、「純金製」のはばきが輝いているのが分かりますね。
さすが光っちゃん、キラッキラです。

 
 

伊達の刀剣が「水戸徳川家」にあったわけ

 

【あす楽対応! 新名刀シリーズ 伊達政宗所用 燭台切光忠
 
伊達政宗の刀として知られる「燭台切光忠」が、なぜ水戸徳川家にいったのでしょう?
 
 
水戸徳川家8代斉脩(なりのぶ)が編纂させた「武庫刀纂」(ぶことうさん)によると、伊達政宗に「燭台切」の「号」の由来を聞いて、水戸徳川家の初代・徳川頼房(家康の11男)が「燭台切光忠」を欲しがったのだそうです。(光圀という説もあり)
 
 
伊達政宗は手放すのを惜しがったそうですが、水戸徳川家の熱意に負けたのか、それとも権威に負けたのか、最終的に譲ったのでした。
 
 
こうして「燭台切光忠」は、伊達家から水戸徳川家に贈られたのです。

 
 

おわりに


せっかく戦国時代、江戸時代を生き抜いてきた刀剣たちでしたが、現代に入って「関東大震災」「太平洋戦争後のGHQの刀狩り」で失われることも多くありました。
 
 
「燭台切光忠」のように震災で焼けた刀剣の中には、「天下三名槍」に数えられる「御手杵(おてぎね)」(焼失)などがあります。
 
 
日本人にとって「日本刀」はただの「モノ」ではありません。
 
 
私たちが博物館で刀剣を見るとき、その刀が見てきた「歴史」そのものを刀をとおして見るのです。
 
 
その刀に関わった「刀匠」や「所有者」の「魂」を感じ取りたいと思うのです。
 
 
日本刀は、古代よりお守りのような尊い存在であり、「命」を守るための武器でもありました。
 
 
きっかけは何であっても、それが元で日本刀の素晴らしさがずっと未来に伝え続けられるというのは、とてもとても喜ばしいことと思うのでした。

 

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