この記事を読むのに必要な時間は約 9 分です。
歴史を習うとき、まず一番初めに登場するミステリアスな女王。
卑弥呼
彼女のことは、邪馬台国とともに、謎のベールに包まれていますね!
これだけ関心が高い人なのは、巫女が女王だったというのも、大きいように思いますね。なんとなく、勝手に「美女設定」してませんか?
また、分かりそうで分からないという、人の心理を突かれているところもありますよね。知りたいなーと思うツボを突いてます。
それでは、卑弥呼について、妄想を交えながらお伝えいたします。
目次
卑弥呼とは、一体何者なの?
当時の日本には、文字で記録を残す文化がありませんでした。
なので、卑弥呼を含む邪馬台国のことは、中国の文書から知るより術がないのです。そこでもう、「中国人フィルター」がかけられた情報だってことですよ。
だいたい「倭」とか「卑弥呼」とか、明らかに蔑視した漢字でしょう?
こんな漢字をそのまま当てて学校で教えていること自体、自虐史観の押し付けだと思います。良くないです。
日本は、「倭国」ではなく「和国」、「大和の国」です。
卑弥呼について分かっていることは、残念な事に、そんな当時の中国の「魏」の書物、「魏志」に書かれた記録だけなのです。
彼女の統治の仕方は、現代とは全く異なっていて、その中心になるのは、「鬼道」でした。
「鬼道」というのは、呪術のようなもので、卑弥呼は、これが非常にたくみだったといわれます。きっと、人心掌握術に優れていたんでしょうね。
卑弥呼の占いは、動物の骨を焼いたものやカメの甲羅を用いて、そのひび割れ具合から「吉凶」を予知するというものでした。その占いで、天候・戦い日程など、日常から大きなイベントまで、あらゆる物事を決めていたのです。
卑弥呼は宮殿の奥から姿を見せることはほとんどなく、夫はいませんでした。弟と、後にもう一人の男性が、身の回りの世話をしたり、卑弥呼の言葉を民に伝える補佐役をしていました。
民の前にうかつに姿を見せないというのは、1人の人間を「神格化」させるためには、とてもよい方法ですね。
邪馬台国の民の暮らし
邪馬台国は、一体どんな国だったのでしょうか。「魏志」倭人伝によると、当時の日本は、「倭国(わこく)」と呼ばれていました。
弥生時代の日本には、100以上の小さい国々があったのです。そして、その国1つ1つに、首長がいました。
その中で、もっとも大きな国だった邪馬台国が次第に「和国」の中心となり、他の国を従えるような強国になっていったのです。卑弥呼は「29国」の王に共立されて女王になりました。
邪馬台国には、すでに身分制度があって、王の下に大人(たいじん)と下戸(げこ)という身分の者がいました。下戸は道で大人に会うと、後ずさりして草むらに入ってあいさつしていたのだそうです。まるで、大名行列が通ったときの庶民みたいですね。
他に、生口(せいこう)という奴隷のような隷属民も存在していたと記録されています。
男たちは、妻を4~5人持つ一夫多妻制でした。下戸でも、妻を2~3人は持っていたそうです。
生活は家屋の中で暮らして、父母兄弟で寝所が異なっていました。生野菜を食べ、飲酒もしていたようですよ。
邪馬台国の場所はどこにあるの?
邪馬台国は、日本のどこにあったのでしょうか?
実は、「魏志」倭人伝に、その場所が書かれています。
でも、困ったことに、倭人伝に書かれたとおりに進むと、日本列島を飛び出してしまうのです。
「方角」か「距離」、もしくはその両方が、間違っているのでした。ういう所からも、「魏志」の日本の記載は適当なんだなーと分かりますね。ですから、いまだに邪馬台国の場所は、特定されていません。
「邪馬台国の場所はどこ?」という論争の言い出しっぺは、新井白石だといううわさがありますよ。
だとすると、もう300年以上、話題になっているということです。
現在では、「近畿説」と「九州説」の2つの説が有力です。
でも、「近畿説」では魏志倭人伝の方角を、「九州説」では距離を、修正する必要があるのです。
それぞれの主張を、確認しましょう。
「近畿説」
● 「卑弥呼」の墓とされる箸墓(はしはか)古墳のある纏向(まきむく)遺跡が邪馬台国である
● 卑弥呼が魏から贈られた「銅鏡」は近畿地方から最も多く出土している
● 3世紀前半にできた近畿の連合政権が、ヤマト政権になった
「九州説」
● 魏志倭人伝に伝わる桜観や宮室の遺構がある吉野ケ里遺跡が邪馬台国である
●「銅鏡」は、国産の可能性がある
● 九州北部の邪馬台国が近畿に移り、ヤマト政権になった
(日本書紀記載の神武天皇の東征による)
「邪馬台国」の年表
最後に、中国正史から見た「倭国」を年表にまとめておきます。
● 前1世紀ごろ
前漢・・・倭人が間の楽浪郡と定期的に交渉する
「後漢書」東夷伝より
● 57年
奴国の王が後漢に朝貢し、光武帝から「漢委奴国王」の印綬を賜る
● 107年
倭国の王が後漢の安帝に生口(奴隷)160人を献上する
「魏志」倭人伝
● 2世紀後半
邪馬台国の女王・卑弥呼が国を治める
●239年
卑弥呼、魏に使者を派遣する。
「親魏倭王」の称号と金印紫綬・銅鏡100枚などを賜る
● 247年頃
卑弥呼没
卑弥呼の宗女で13歳の壱与(いよ)が女王になる
おわりに
邪馬台国が、この後どのように繫栄し、また滅亡するのか、今のところ解明されていません。
そのまま弱体化して滅亡したという説も、やがてヤマト政権に吸収、または滅ぼされたという説があります。
結局、謎のままななのですね。
それも、歴史の面白いところなのでした。(*^^)v
【関連記事】
↓