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こんにちは!
 
奈良といえば、私は鹿ですが一般的には「大仏」でしょうか?
 
 
近鉄奈良線の構内に「あなたは京都派?それとも奈良派?」と書かれたポスターが貼られていましたよ。
 
 
私は、奈良派です(´・ω・)
 
 
観光客だらけの京都はもうお腹いっぱい、それよりのんびり広ーい奈良公園で鹿とたわむれたいのです。
 
 
最寄り駅から1時間ほどで奈良駅に着くのですが、最近は学校の長期休みのたびに娘と一泊して鹿に貢ぎに行ってます。(鹿せんべいを)
 
 
柿の葉寿司も美味しいですよ。
 
 
東大寺の前まで行きますが、混んでるし何度も見たしということで、大仏様にはあまり会ってません。
 
 
今回はその東大寺大仏(廬舎那仏)を建てた聖武天皇についてお伝えします。

 
 

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聖武天皇が即位したときの政情

 

 
聖武天皇(701~756年)は、奈良時代に仏教を保護した天皇です。
 
 
彼が天皇になったとき、都は伝染病が大流行し、飢饉や地震などの自然災害が重なって、大変な状況におちいっていました。
 
 
民衆の間に大きな不安と不満が広がっていて、人々は救いを求めていたのです。
 
 
また、「藤原広嗣の乱」などが起こり、政情においても不安の多い時期でした。
 
 
聖武天皇はこのような時期に統治した天皇で、彼は都を短期間に転々と移しています。世情を変えたかったのでしょうね。

 
 

仏教を保護し国分寺・国分尼寺を建立

 

 
聖武天皇は、仏教をとても重んじていました。
 
 
当時は、中国は「唐」の時代で、日本は遣唐使を派遣して唐の文化や学問を積極的に取り入れていました。
 
 
そして、彼は仏教によって社会不安をしずめようと考え、全国に国分寺と国分尼寺を建てたのです。
 
 
国分寺や国分尼寺は、全国の国ごとに作られました。このことから、聖武天皇が本気で日本全国に仏教を広めようと努力していたと分かります。
 
 
奈良の平城京には、東大寺を建て、あの有名な大仏(廬舎那仏)を作ったのです。

 
 

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なぜ聖武天皇は15mもの巨大大仏を作ったのか?

 

 
聖武天皇は、約15mもの高さの大きな大仏を作りました。当時の技術からしたら、大変な作業だったでしょうね。
 
 
東大寺には大仏の鼻の孔と同じ大きさの穴が開いてる柱があります。小学生ぐらいの子供が通れる大きさの穴で、ご利益があるので、いつもその穴をくぐるのに行列ができています。私も子供のころなんどかくぐりましたよ。
 
 
最近は、外国人観光客(でっかい大人)が無理やり通ろうとして、途中で抜けなくなって騒いだりしています。めんどくさい人たちです。
 
 
聖武天皇が巨大な大仏を作ったのは、もちろん仏の力で災いから逃れようと考えたためです。当時は、大真面目に考え出した国策だったのでしょう。
 
 
でも、これは民衆に救いの対象を与えるという意味では、大きな効果あったと思われます。あれだけでかい大仏ですからすごいインパクトだったでしょう。
 
 
こうして、大仏は民衆の不安と不満を和らげる力になったのでした。

 
 

聖武天皇の政治政策「墾田永年私財法」

 

 
聖武天皇は743年に「墾田永年私財法」(こんでんえいねんしざいほう)を制定しました。
 
 
それ以前は、「三世一身の法」(さんぜいっしんのほう)と呼ばれる土地制度だったのです。
 
 
この2つの制度はセットで覚えておくとよいですね。
 
 
723年の「三世一身の法」は、朝廷から与えられた口分田とは別に、新しく自分で土地を切り開いた者には、その土地を3世代(孫の代)まで自分たちの土地にしてもOKという法律でした。
 
 
孫の代といっても、当時の農民の平均寿命は30歳ぐらいなので、結構短いものだったのです。
 
 
そして、もともと荒れた土地を開墾するのはとっても大変で時間がかかったので、新しい土地を開拓するのにやる気がなかなか出ませんでした。
 
 
そこで聖武天皇は、次の一手として「墾田永年私財法」を制定したのです。
 
 
743年に制定された「墾田永年私財法」は、「三世一身の法」より農民にとってうれしい制度だったのです。
 
 
なぜなら「墾田永年私財法」は、新しく土地を切り開いたら、ずーっと自分の土地にしてOKという許可だったからです。
 
 
民衆のやる気は、一気に高まりました。
 
 
でも、「大化の改新」以来の「公地公民」の制度がここで大きく崩れていくことになったのです。
 
 
そうして、これが貴族や有力者が多くの土地を持つ荘園制度につながり、天皇の力が弱まる原因になったのでした。

 
 

「墾田永年私財法」は問題の制度だった?

 
 
聖武天皇の制定した「墾田永年私財法」は、長い目で見ると問題のある制度でした。
 
 
この制度は「大化の改新」以来の「公地公民制」、つまり「土地も人もすべて国のもの」というお約束を破ってしまったのです。
 
 
これによって、農民は自分の財産を持てるようになり、役人の言いなりにならなくても生きていけるもんねという人が増えて、上からの命令に従わなくなってきたのです。
 
 
天皇を頂点とする中央集権体制が崩れてしまったということです。
 
 
そうして、藤原氏など有力な貴族が政治の特権をにぎって、政務を行うようになっていったのです。

 
 

聖武天皇の簡単な年表

 
 
・701年
 文武天皇の第一皇子として誕生
 
・707年
 父・文武天皇崩御、祖母が元明天皇、叔母が元正天皇となる
 
・714年
 皇太子になる(立太子)
 
・724年
 天皇となる
 
・729年
 長屋王の変で長屋王が自害、藤原四子が政権を担う
 
・737年
 藤原四子が天然痘で全員病死(祟り?)橘諸兄が政権を担う
 
・740年
 藤原広嗣の乱、平城京から恭仁京、紫香楽宮、難波京へ転々と遷都
 
・741年
 国分寺建立の詔(みことのり)
 
・743年
 大仏造立の詔、墾田永年私財法
 
・745年
 平城京に戻る
 
・749年
 娘・孝謙天皇に天皇の位を譲り、太上天皇に
 
・752年
 東大寺大仏開眼供養
 
・756年
 崩御

 
 

おわりに


今回は、仏教を保護した聖武天皇についてお伝えしました。
 
 
彼は伝染病の流行、飢饉、地震というたいへんな時期に統治したため、「仏教」の力を借りて国を立て直そうとしたんですね。
 
 
それでは、聖武天皇の特徴をおさらいします。
 
 

★「東大寺」と巨大な「大仏(廬舎那仏)」を建てた
 
★「国分寺」「国分尼寺」を全国に作った
 
★「仏教」の力で「災い」から国を救おうとした
 
★「墾田永年私財法」は天皇中心の政治体制が崩れる原因になった

 
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