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こんにちは。
 
 
今回は、飛鳥時代のビッグイベントの多くを引き起こすか関与している中大兄皇子について!
 
 
中大兄皇子は、後の天智天皇です。
 
 
私のイメージは「1番な俺様キャラ」って感じです。
好き嫌いが激しくて、敵対する人には容赦ない、そして、日本で初めて元号を作った人で、戸籍も初めて作った人で、初めて政治改革を行った人でもあります。
 
 
そして、小倉百人一首でも「1番」なのです。
1番だからよく覚えられています。
   ↓
「秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」
 
 
まさかの農民目線の歌でした。( ̄▽ ̄)
 
 
ついでに、この人は伝説の美女・額田王を弟(大海人皇子)から奪っています。ちょっとした略奪婚です。
 
 
やっぱり、これだけ昔の人なのに超有名人ともなれば、パワーが違いますね。

 
 

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中大兄皇子と中臣鎌足の大化の改新

 

 
中大兄皇子がまだ若かったころ、宮廷は、蘇我蝦夷・入鹿一族に牛耳られていました。聖徳太子が亡くなった後、蘇我入鹿は聖徳太子の一族を殺害したのです。
 
 
そして、蘇我入鹿は舒明天皇を軽く見て、自分が大きな権力を握るようになりました。
 
 
そんな状態は国のためによくないと考えていた舒明天皇の皇子の中大兄皇子は、天皇中心の政治に戻そうと考えます。そして、同じ志を持つ役人の中臣鎌足と協力して、蘇我入鹿を殺害したのでした、天皇の面前で・・・。
 
 
さすがにやることが俺様です。
(蘇我蝦夷はその後自殺)
 
 
中臣鎌足については⇒★こちらの記事をどうぞ♪
 
 
その後、やる気も実力もあった中大兄皇子は、中臣鎌足の協力を得て、政治改革に取り組みました。唐の政治制度を取り入れて、天皇中心政治体制を作ろうと改革していったのです。
 
 
そして、日本で初めての元号を作り「大化」と定めました。それをとってこの政治改革は「大化の改新」と呼ばれます。
 
 
そのころ朝鮮半島では、唐・新羅の連合軍と百済の間で戦争が起こりました。日本は百済と同盟を結んでいたので、中大兄皇子は、唐・新羅連合軍に向けて大軍を送り込みますが、ボコボコに大負けしてしまったのでした。これが「白村江の戦い」です。
 
 
中大兄皇子は、その後、唐や新羅の戦力を甘く見てはいけないと学び、九州の守りを固めるために防人(さきもり)を置きました。
 
 
そして、中大兄皇子は、都を近江大津宮(滋賀県)に移して、663年、天智天皇として即位したのです。
 
 
天智天皇の在位期間は8年ほどど短いですが、彼はそのずいぶん前から中大兄皇子として政治の中心にいました。
 
 
聖徳太子といいこの人といい、改革をしたい人はあまり天皇になりたがりませんね。めんどうなのでしょうか。
 
 
天智天皇の後、大きな後継争いが起こりました。
 
 
「壬申の乱」と呼ばれるこの争いは、天智天皇の息子・大友皇子と弟・大海人皇子との戦いで、大海人皇子が勝ちました。
 
 
でも、天智天皇の娘が大海人皇子に嫁いでいたため、ドロドロの近親間の争いだったのです。飛鳥時代は、力を集中させるために、叔父と姪などの近親婚はたくさんありました。
 
 
大海人皇子は、天武天皇として即位しました。

 
 

「大化の改新」をちょっと詳しく説明


645年、「乙巳の変」(いつしのへん)で中大兄皇子と中臣鎌足は、蘇我入鹿を殺害しました。
 
 
その後、中大兄皇子は、まずは自分が天皇にはならず、軽皇子を孝徳天皇として即位させ、自らは実権を握りました。
 
 
彼が唐の律令制度を取り入れて刷新したものは、大きく4つあります。

 
 

(1)公地公民制

 
 
公地公民制というのは全ての土地と人民を天皇が支配するというものです。
 
 
それまで、土地や人民は、王族や豪族がそれぞれ支配していたのですがそれを禁止する法令です。中央集権体制を強めるために作られたのです。

 
 

(2)国郡制度

 

 
国郡制度は、全国を国(60以上)に分け、さらに国をいくつかの郡に分けると決めたものです。
 
 
都道府県のように全国を分けて、地方行政組織を定めたのです。そして、各郡には、朝廷からは国司が派遣されて治められました。

 
 

(3)班田収授法

 
 
班田収授法は、6年毎に戸籍を作り、その戸籍に従って土地を国民に分け与えるというものです。
 
 
亡くなった人が出たら、その人の分はいったん国に返してもらうという決まりがありました。

 
 

(4)「租・調・庸」の税制

 

 
「租」「調」「庸」の税制は、すべての者が税を納めるという前提の、統一的税制です。
 
 
「租」は土地(口分田)の広さに応じて米(稲)を納めるというもの、「調」はその土地の特産物を納めるもの、「庸」は労役の代わりに一定量の布を納めるというものでした。
 
 
「租」は地方の財源で、「調」と「庸」は中央政府の財源になりました。

 
 

おわりに


聖徳太子が整えた「天皇中心の国」が蘇我氏によって崩されたこのとき、天智天皇は、それを見事に元に戻したのです。
 
 
これ以降、天武天皇、持統天皇が中心になって、日本の国家を統治していきました。
 
 
ちなみに、娘の持統天皇は、百人一首「2番」です。
 
 
「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」
 
 
万葉の歌人らしいのびのびした素敵な歌ですね。

 
 

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