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小野妹子って女の子っぽい名前ですよね。
 
 
でも、この人、れっきとした男性で、推古天皇や聖徳太子の元で活躍した飛鳥時代の高級官吏だったんです。かなりスゴイ人なんですよ。
 
 
飛鳥時代は、身分の高い「男子」に「子」をつけることが多かったようです。
 
 
平安時代に下ると、身分の高い「女子」につけるようになっていきました。藤原高子、藤原定子、藤原彰子などの中宮(天皇の正妻)の名前がそうですね。。
 
 
小野妹子の大きな業績は、やはり「第2回遣隋使」で隋の煬帝(ようだい)と対面し、聖徳太子のアノ手紙を渡したことでしょう。
 
 
でもその後、彼は煬帝からの返書を旅先で失くしてしまうという、あり得ないポカをやらかしました。
 
 
今回は、古代の外交官・小野妹子についてお伝えします。

 
 

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小野妹子「第2回遣隋使」として隋へ

 

 
小野妹子は滋賀県の小野村に生まれました。
 
 
小野氏はもともと天皇家の血筋の一族でしたが、妹子が生まれた頃には、地方の大豪族という家柄になっていました。
 
 
607年に小野妹子は、推古天皇の摂政・聖徳太子に選ばれて、遣隋使として隋に渡ります。
 
 
遣隋使というのは、当時の大国で先進国の隋へ技術や政治文化を学びに行った外交使節団です。
 
 
当時の中国は隋の第2代皇帝・煬帝(ようだい)が治めていました。隋は大運河を建設するなど統一国家の建設を進めましたが、高句麗への遠征に失敗し、たびたび民衆の反乱が起こっていたのです。(618年に煬帝が殺害され隋は滅亡)
 
 
それまで中国は、300年という長い混乱期にありました。その間、日本とのつながりも長らく耐えていたのです。
 
 
589年に隋が中国を統一し、聖徳太子は今こそ隋との交易を再開するときだと考えました。そして、聖徳太子は、小野妹子に自分がしたためた手紙を託して、隋に送ったのでした。

 
 

聖徳太子の文に煬帝が激怒?

 

 
「日出処天子至書日没処天子無恙云々」
(日出る処の天子、書を没する処の天子に致す。つつがなきやうんぬん)

 
 
「日の出る(東の)国の天子」(日本)が「日の沈む(西)の国」(隋)の天子に手紙を書くという内容ですね。
 
 
この書を読んだ煬帝は、激怒したそうです。煬帝といえば、オラオラ系の皇帝ですよ。
 
 
怒りの原因の大元は聖徳太子がはっきり「天子」と記した点でした。
 
 
当時、中国は周辺国を属国として従えていました。周辺国は中国に朝貢(貢物を贈る)ことでその地の支配者として認めてもらうという関係だったのです。
 
 
そんな隋にとって、隋の皇帝以外が「天子」を称することは許せないことでした。
 
 
でも、はっきり書いてますね、聖徳太子様。そう書くことで、日本を独立国として認めさせようとしたんです。
 
 
大変なのは、それを持って行った小野妹子です。でも、彼はがんばりました。
 
 
また、日本にとって都合がよかったのは、当時、隋はまだ政局が安定していなかったため、日本と高句麗が手を結ぶのはなんとしてでも避けたかったのです。それで、煬帝はしぶしぶ聖徳太子からの文を受け入れ、小野妹子を罰することもしなかったのです。
 
 
それどころか、裴世清(はいせいせい)という煬帝の部下を、国史として日本へ同行させています。
 
 
小野妹子の外交は、ひとまず大成功と言えたでしょう。

 
 

煬帝の手紙を失くした小野妹子、でも忖度だった?

 

 
隋から日本に帰るとき、小野妹子は煬帝から返信の手紙を預かりました。でも、帰りに途中の百済で紛失してしまったんです。
 
 
これは由々しき事態ですよ。帰りといっても一人旅なはずはなく、護衛などたくさん引き連れているわけですから、故意に盗まれたとかでない限りあり得ないポカなのです。
 
 
小野妹子は、帰国後にその責任を問われて島送りにされました。
 
 
でも、この手紙紛失事件は、小野妹子の忖度(そんたく)で、わざと失くしたのではないかと言われています。
 
 
その大きな根拠は、とんでもないポカをやらかして島流しになったはずなのに、彼がすぐに恩赦されてもっとも位の高い「大徳」に昇進し、再び「第3回遣隋使」として派遣されているからです。
 
 
煬帝からの返信の内容が、日本側として公にするとまずいものだったので、小野妹子が配慮して捨てたか、聖徳太子と相談して処分したなど憶測をよんでいます。
 
 
いずれにせよ、その後、小野妹子は遣隋使として再び隋に渡り、1年後に日本に無事帰還しています。(その後の動向は不明)

 
 

小野妹子は華道(池坊)の祖といわれる

 

 
京都の烏丸御池から南のほうに少しあるくと「六角堂」というお寺があります。そこは、聖徳太子が創建したお寺で「いけばな発祥の地」といわれるお寺です。
 
 
晩年、小野妹子はこの六角堂の初代住職になり、朝夕、仏前に花を供え始めました。それが後の「華道の始まり」になったのです。
 
 
その後、六角堂の歴代住職「池坊」は、仏前への花の添え方を工夫し続けました。それが華道「池坊」として現代につながるのです。

 
 

おわりに


失態で島送りになりながらも、最高級の地位に返り咲いた小野妹子。
 
 
その波乱万丈の一生は、いまだ解明されていないところが多いです。
 
 
でも、2度も隋へ渡り無事に帰れたというのもすごくラッキーですね。当時の遣隋使は命がけの行為で、遭難するものもたくさんいましたから。
 
 
飛鳥時代は史実で解明されていることが少ないですが、晩年は仏に花を捧げたりしているので、穏やかな最期だったのではないかなと思います。
 
 
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