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こんにちは。
 
 
今回は、元祖・藤原氏の中臣鎌足(後の藤原鎌足)について!
 
 
現代に続く藤原氏の始祖ともいえる人ですよ~。
 
 
現代の藤原氏は姓を変えて健在です。
 
 
「氏」と「姓」は違いますからね。
藤原北家嫡流の皆さんは、姓は藤原さんではありませんよ。
 
 
こういう姓になってます⇒★藤原氏の子孫は今も健在!筆頭は「五摂家」

 
 

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中臣鎌足は「大化の改新」を進めた人

 

 
中臣鎌足のもっとも大事なキーワードは「大化の改新」です。
 
 
彼は、臣下として年の離れた親友として、中大兄皇子を助けて反対派の蘇我氏を倒しました。
 
 
中臣鎌足は、614年に奈良県で生まれました。聖徳太子が亡くなった(622年)後、蘇我蝦夷(そがのえみし)は、舒明天皇を立て、自分が実権を握りました。
 
 
そして、その息子の蘇我入鹿(そがのいるか)は、聖徳太子の一族を滅ぼして、どんどん増長していったのです。
 
 
当時、役人だった中臣鎌足は、このままでは日本は蘇我氏に操られてしまうと危機感を感じ、皇子の中でもっとも賢くやる気もあった中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)に近づいたのでした。
 
 
中大兄皇子は、鎌足より12歳年下の皇子でした。
 
 
でも、実は皇子も同じように日本の行く末について、案じていたのです。2人は「打倒蘇我氏!」という志が一致し、タッグを組んだのです。
 
 

中大兄皇子との運命の出会い

 

 
中臣鎌足と中大兄皇子が出会ったときのことが、逸話として伝わっています。
 
 
中臣鎌足は、増長していた蘇我氏を倒すために、なんとかして中大兄皇子とコンタクトを取りたいと思っていました。
 
 
中大兄皇子と中臣鎌足では、身分の差が開きすぎていたので、直接話かけることなどできなかったのです。
 
 
そんな折、突然チャンスが訪れます。
 
 
宮中の庭で蹴鞠(けまり)をしていた中大兄皇子の草履が、鞠を蹴った勢いでスポンと脱げて飛んで行ったのです。
 
 
ちょうどそのときそこに居た中臣鎌足は、すかさずれを拾って丁重に差し出しました。そうして、ここぞとばかり、話をしたのです。
 
 
チャンスができたのもすごいけど、それを逃さず次につなげられたのもなかなかですね。
 
 
でも、それだけではなく、やはりこの2人は、馬が合ったのでしょう。なぜなら、これだけ権力争いのあったこの時代、彼らは最後まで友情を貫いたのです。
 
 
中臣鎌足が病で亡くなるときまで友情は続きました。

 
 

「藤原」の氏を中大兄皇子から賜る

 

 
孝徳天皇が即位して、中大兄皇子は皇太子となったとき、中臣鎌足は天皇のそばで相談にのる内臣になりました。
 
 
そうして、ずっと中大兄皇子を補し働いていたのですが、669年に中臣鎌足は重い病気にかかってしまいます。
 
 
この時、お見舞いにきた中大兄皇子は、中臣鎌足に、臣下として最高の位である「大織冠(だいしょくかん)」と、「藤原」の氏を与えたのです。
 
 
こうして、中臣鎌足の子孫は、その後「藤原氏」として朝廷内で栄えていきます。
 
 
平安時代に他氏排斥をして一時、宮中を牛耳った「藤原一族」は、この中臣鎌足の子孫なのでした。
 
 
それから間もなくして、藤原鎌足はこの世を去りました。56さいでした。
 
 
でも、彼の子孫の藤原氏は、「摂関家」として明治時代に入るまで、朝廷内で高い地位を独占し続けたのでした。

 
 

「大化の改新」で鎌足は何をしたの?

 

 
641年、舒明天皇が崩御し、女性の皇極天皇(後の斉明天皇)が立つと、蘇我氏の横暴はますますひどくなりました。
 
 
中大兄皇子と中臣鎌足は、用意周到に準備をしました。失敗すれば命とりですからそれは慎重になります。
 
 
そうして645年、2人は宮中の天皇の面前で蘇我入鹿をかなり大胆に殺害し、蘇我氏を滅ぼすことに成功したのでした。これが「乙巳の変です。
 
 
その後に取り組んだ政治改革が、「大化の改新」と呼ばれるものです。中大兄皇子と中臣鎌足が中心なっていろいろな改革に取り組みました。
 
 
日本初の戸籍庚午年籍(こうごねんじゃく)を推し進めたのは、鎌足の力が大きかったのでした。
 
 
鎌足は気性の激しい中大兄皇子と臣下の間を取り持って、改革をスムーズに進めたといわれています。
 
 
中臣鎌足は、信頼できる強いリーダーの下で力を発揮できる官僚だったのでしょう。そして、きっと本人もそのことをよくわかっていたのだと思います。

 
 

中臣鎌足渡来人説について

 

 
中臣鎌足の一族は、朝鮮半島から渡ってきた百済の系統ではないかという説があります。
 
 
渡来人というのは、中国や朝鮮半島から、日本に渡ってきて定住した人のことを指すのですが、これは今のところ、否定も断定もできないようです。
 
 
藤原氏が朝鮮人だったので、桓武天皇とタッグを組んで平安遷都を推し進めたという説もありますが、これも断定はできないと思います。桓武天皇は、母方が渡来人です。
 
 
でも、そんなことを言うと、古代日本に住んでいた多くの人は、海を渡ってきた人の子孫だったと思うので、線引きするのは難しいです。

 
 

おわりに


中臣鎌足を語るうえで、日本史上もっとも大事なのは、元祖藤原氏だったという事だと思います。
 
 
もしも鎌足が中大兄皇子と仲良くなれなければ、日本の歴史はえらく変わっていたでしょう。
 
 
彼が史上初の政治改革「大化の改新」を手伝ったことは、そういう意味で大きなことだったと思います。

 
 

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