この記事を読むのに必要な時間は約 11 分です。
↑
(「相国寺」同志社大学と同志社女子大学の間の門。奥行きがあってかなり広いです。)
こんにちは。
久しぶりに、京都御所周辺に行ってきました~♪
今日の京都は、すがすがしい秋晴れで、お散歩日和でしたよ。
でも、京都御所は、広くて歩くのしんどいので、入ってません。
その京都御所(御苑)の道を挟んだ真北に、同志社大学(今出川キャンパス)があります。今日はこの隣に用あったので、キャンパス内をてくてくウォーキングしました。
この同志社今出川キャンパスが、幕末に薩長同盟が結ばれた「薩摩藩邸の跡地」なのです。(ちなみに室町時代は「相国寺」の敷地内でした。)
この大学は新島襄が創設者なのですが、元会津藩士の山本覚馬の尽力なくしてはできなかった大学なのです。どうしてかというと、彼が「同志社」の名付け親で、学校用地を譲渡した人だからなのです。
「八重の桜」の西島秀俊さん(←かなり好き)のおかげでちょっと知名度上がりましたけど、京都の府政にもたいへん貢献している人なのに、あまり知られていないようです。
ですから、是非知っていただきいたいなと思い、山本覚馬と薩摩藩邸、同志社の関係についてお伝えします。
目次
京都にあった3つの薩摩藩邸
江戸末期、薩摩藩邸は京都に3つもありました。
錦小路藩邸
二本松藩邸
伏見藩邸
「錦小路藩邸」は、文字通り、現在の錦小路にあります。
大丸京都店のあたりです。
繁華街なので、混雑していて分かりにくい場所です。
なかなか便利そうな場所にありますが、この「錦小路藩邸」は、「禁門の変」で焼失してしまいます。
その後、御所の隣の「二本松藩」邸が薩摩の京の本拠地となったのです。
「伏見藩邸」は、坂本龍馬が伏見の寺田屋事件でかくまわれた薩摩藩邸です。
龍馬は、まずここに避難して、その後「二本松藩邸」に移動したのでした。
この「二本松藩邸」が、現在、同志社大学のある場所なのです。
御所に隣接って、すごい便利な場所にあったんですね。しかも、「錦小路藩邸」よりずっと広いです。
二本松藩邸跡の石柱は、同志社大学の西門前にあります。
「薩長同盟の合議」は、慶長2年(1866年)1月20日、この場所で行われたとされていますよ。
なぜ薩摩藩邸が同志社大学に?
↑
「クラーク記念館」重要文化財です。(同志社大学)
同志社大学の創始者は新島襄ですが、彼は薩摩藩とは、ほとんど関わりがありません。
そもそも、彼はほとんど政治と関係ない人です。そして、吉田松陰は渡米に失敗しましたが、新島襄はラッキーなことに成功しています。
アメリカに渡って、近代教育とその元のキリスト教(プロテスタント)にかぶれ、新しい学校を建てたいと意欲満々で帰国した人でした。その後、彼は近代学校設立のために、資金集め(募金)に奔走します。
学校土地を手にいれる幸運は、後に彼の妻になる山本八重とその兄・覚馬(かくま)との出会いがきっかけでした。山本八重は、大河ドラマ「八重の桜」のヒロインでしたよ。
そして、彼女の兄・山本覚馬が、会津のすごい逸材だったのです!
新島襄の義兄・山本覚馬の5つの功績
新島襄が旧薩摩藩邸を手にいれることができたのは、新島襄の妻・新島八重の兄・山本覚馬の尽力によります。
覚馬は新島襄の学校建設の意志に共感し、維新後に買い取っていた薩摩藩邸の土地を、新島襄に譲渡したのでした。
(1)佐久間象山に学び砲兵隊を作る
山本覚馬は会津藩で砲術指南をしていた山本権八の長男として誕生します。4歳から『唐詩選』の「五言絶句」を暗誦するとても賢い子供でした。
彼は22歳のとき、江戸に出て、勝海舟らとともに佐久間象山の塾生になり、西洋の砲術を学びます。西郷隆盛と初めて会ったのもこの頃です。
1862年には、藩主・松平容保に従って京都に行き、そこで、「洋学所」を開設しました。幕府側にも、洋式砲術に長けた人はいたということですね。
「禁門の変」では、会津の砲兵隊を率いて参戦し、勲功を挙げます。この頃から眼病を患い、急激に視力を失いました。(後に失明)
「鳥羽・伏見の戦い」で、幕府・会津軍が新政府軍に敗北すると、彼は薩摩藩邸に幽閉されることになりました。
でも、山本覚馬がすごいのは、賊軍となり失明したここからなのです!
(2)獄中で書いた「山本覚馬建白(管見)」が高く評価される
幽閉されたといっても、彼の優秀さは薩摩藩の首脳部も知っていたので、そんなに粗末には扱われなかったそうです。
視力を失った覚馬は、一緒に幽閉されていた野沢鶏一に頼んで口述筆記してもらい、21項目に及ぶ「山本覚馬建白(通称、管見)」を完成させました。
獄中でもやる気満々だったところが、謹慎中に手紙を書きまくっていた佐久間象山とかぶって面白いです。
幽閉から1年後に彼は釈放され、新政府に提出した「山本覚馬建白(通称、管見)」が、西郷隆盛や岩倉具視らから高く評価されました。
そこには「三権分立」、「職業選択の自由」をはじめ、「構造改革」、「税制改革」、「教育改革」、「産業振興の要諦」など、国家の在り方について多岐にわたって記されていたのです。
(3)京都府顧問(知事のブレーン)に就任
そして、明治3年(1870年)、京都府顧問として迎えられ、知事のブレーンとして府政で活躍したのです。
彼は、東京遷都で衰退しつつあった京都府政の勧業政策を推進し、京都の近代化に大きく貢献しました。
(4)日本初の博覧会を開催
山本覚馬は、明治5年(1872年)、日本初の博覧会「第1回京都博覧会」を西本願寺・建仁寺・知恩院を会場にして開催しました。このとき、日本で初めてのの「英文案内記」を書いています。
東京遷都によって産業文化の衰えていった京都府にとって、西洋の知識や近代産業に精通した覚馬の存在は、ありがたかったのです
この「京都博覧会」は、京都の町を活気づかせ、日本が先進的な国だということを内外にアピールできました。
(5)「同志社」の名付け親だった
↑
「ハリス理化学館」。こちらも重要文化財です。
明治8年(1875年)、当時大阪で伝道中だったアメリカの宣教団体アメリカン・ボードのM・L・ゴルドンと出会い、『天道溯原』を贈られます。それを読んで大いに共感した彼は、キリスト教こそが真に日本人の心を磨き、進歩を促進する力となり得ると考えたのです。
その跡、京都にキリスト教を基本とした近代学校設立を切望する新島襄と知り合い、協力すると約束しました。
山本覚馬は明治維新後に購入していた旧薩摩藩邸の敷地(6,000坪)を学校用地として新島に譲渡したのです、そして、新島襄と連名で「私学開業願」を文部省に出願し認可されたのでした。
この学校は、設立時は「同志社英学校」という名でした。その後、学部が増えるに伴って「同志社大学」と改名されました。
「同志社」と命名したのは、山本覚馬といわれます。
彼が文章に書いた「われら同志の者、文学の隆盛せんことを望み、社を結び、英学校を開き、これを名づけて…」の言葉から、新島襄に「同志社」はどうでしょうと提案し、新島も気に入って決まったのでした。
晩年になって府顧問をやめた後、山本覚馬は同志社を軸に活動しました。
明治18年(1885年)には、妻の時栄とともにキリスト教の洗礼を受けます。
明治23年(1890年)、新島が他界すると、覚馬は同志社臨時総長として、同志社の発展に尽力したのです。彼が臨時総長のときに、「ハリス理化学校」や「同志社政法学校」が設置されています。
彼は、明治25年(1892年)、64歳で亡くなりました。そのお墓は、若王子山上の同志社墓地にあります。