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こんにちは。
 
今回は、今ではドラマやゲームなどですごく人気のある「新選組」のメンバーについて!
 
 
「新選組」は幕末の京都で、尊王攘夷志士(反幕府勢力)を取りしまっていた武装組織です。
 
 
「戊辰戦争」が始まると旧幕府軍の一員として戦いに参加しました。
 
 
その主要メンバーの紹介を、さらりと簡単にしていきます。

 
 

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◆初代局長・芹沢鴨

 

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芹沢鴨(せりざわかも)は短気で粗暴、すぐにキレて暴れだすという強烈ジャイアンキャラの人です。
 
 
朝から飲んだくれては当たり散らかすこともありましたが、その一方、おおらかで人の良い面もありました。
 
 
彼は水戸藩の武士階級出身で、実はかなり教養のある人でした。
 
 
彼のおかげ(武士だから)で新選組が会津藩おかかえ警備隊になれたようなものです。
 
 
でも、新選組結成してからわずか半年後に、新選組内の派閥争いで、「近藤派」に暗殺されてしまいました。
 
 
芹沢鴨暗殺の日、近藤らは宴会を開いて彼を酔っぱらわせました。その料亭京都島原の「角屋(すみや)」に行ってきました。

   ↓

 
 

◆局長・近藤勇

 

 
二代目局長の近藤勇(こんどういさみ)は土方歳三、沖田総司ら故郷の道場から一緒の隊士たちから絶大な信頼を受けていました。
 
 
「試衛館」という天然理心流の道場の養子でしたが、幕府が募った浪士隊に同門の土方歳三、沖田総司らとともに応募し上洛します。
 
 
芹沢鴨の暗殺後は局長になって「新選組」の指揮をとり、攘夷志士の取りしまり、京都市中の警備を担当しました。
 
 
「鳥羽伏見の戦い」では直前に銃撃を受け負傷し参加できませんでした。その後、「甲陽鎮撫隊」を結成しますが、甲州勝沼で再び敗走しました。
 
 
最後は下総国(千葉県)流山で官軍に投降し、江戸板橋の庚申塚で斬首となりました。

 



 
 

◆副長・土方歳三

 

 
土方歳三(ひじかたとしぞう)は、「新選組」の「鬼の副長」、近藤勇の右腕でした。
 
 
「局中法度」という鉄の掟(めっちゃ厳しい掟)を作ってそれを徹底的に貫く鬼のように厳しい副長です。
 
 
一方、俳句が趣味だけどすごく下手、女性にモテモテなのを自慢したがるなどのかわいい一面もあり、ギャップ萌えもきちんと押さえている人でした。
 
 
近藤勇が処刑された後、榎本武揚(えのもとたけあき)の軍艦に乗船して五稜郭に渡り、「箱館戦争」の激戦で戦死しました。

 



 

◆一番組組長・沖田総司

 

 
一番組組長沖田総司(おきたそうし)は、新選組のドラマや漫画では、美少年キャラで描かれることが多いです。
 
 
「めっちゃ強い若い剣豪、なのに病気持ちで病死」というギャップ萌えのテンプレを持つ人なので、おのずと美形キャラとして定着しました。(ほんとはよくわからん)
 
 
暗殺など物騒な事を任されていましたが、花街より子供と寺で遊ぶのが好き、近藤勇一筋(兄のように慕っていた)という少年らしい一面を見せていたところが切ないです。
 
 
もともと「試衛館」で天然理心流を学ぶ近藤勇の弟子でした。
 
 
近藤勇の処刑を知らされないまま、肺結核で病死しました。

 



 
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◆二番組組長・永倉新八

 

 
永倉新八(ながくらしんぱち)は、「新選組」の中でも代表的な剣豪で、さっぱりした江戸っ子気質のカッコいい人です。
 
 
彼は江戸勤めをする松前藩士・長倉勘次の嫡男として生まれた士族です。
 
 
「新選組」二番組組長でしたが、沖田総司が病気で働けなくなってからは、沖田の一番組も率いていました。
 
 
指揮官としての力も優れていて、「鳥羽伏見の戦い」の際に、伏見の局地戦で唯一、敵陣を突破できた部隊の指揮官でした。
 
 
激動の幕末を生き抜き、明治時代に新選組についての書籍を残して、「新選組」の名誉回復に大きく貢献しました。
 
 
後に元隊士・阿部十郎は、「新選組」の剣の腕前は「1に永倉、2に沖田、3に斎藤」と評しています。

 



 

◆三番組組長・斎藤一

 

 
斎藤一(さいとうはじめ)は、「新選組」の寡黙な切り込み隊長でした。
 
 
左利きの居合の達人で、クールなキャラとして描かれることが多いのは、おそらく本人がそのとおりだったから。
 
 
この人がいちばん多く「新選組」の人斬り・暗殺事件に関与しています。
 
 
坂本龍馬暗殺で真っ先に疑われたのも「左利きの剣豪=斎藤一」と連想されるほど剣の達人として有名だったからです。(龍馬殺害の犯人は京都見廻隊だった)
 
 
彼は会津で土方とたもとを分かちそのまま会津藩士とともに行動し結婚もしています。
 
 
「西南戦争」では抜刀隊として薩軍相手に活躍し、新聞にも載りました。
 
 
永倉新八と同じで大正時代まで生きましたが、「新選組」や過去のことを多くは語りませんでした。(やっぱり寡黙キャラ)

 



 

◆四番組組長・松原忠司

 

 
松原忠司(まつばらちゅうじ)は、播州小野藩士の子として誕生しました。
 
 
壬生浪士隊の始めの募集で応募し、「新選組」の隊士としては最初から参加しています。
 
 
「池田屋事件」では土方隊に参加しました。
 
 
1864年に何らかの理由で死亡しています。「新選組」記録では「病死」とのみ記されています。
 
 
何らかの理由で切腹したけど未遂に終わり、平隊士に降格されたという説も有力です。そのときの傷が元でなくなったとも伝わります。

 
 

◆五番組組長・武田観柳斎

 

 
武田観流斎(たけだかんりゅうさい)は、医者の卵で文武両道の逸材でしたが、後に倒幕思想を持って薩摩藩に近づき、京都郊外の鴨川銭取橋で「新選組」によって暗殺されました。
 
 
武田の暗殺には斎藤一と篠原泰之進が関与したといわれます。でも、このとき2人は御陵衛士に潜入していたため、別人の可能性もあるともいわれます。
 
 
また、斎藤さんが疑われてますよ・・・

 
 

◆六番組組長・井上源三郎

 

 
井上源三郎(いのうえげんざぶろう)は、「新選組」の癒し系組長、組長の中では年長者です。
 
 
天然理心流の道場「試衛館」に入門し、近藤勇の兄弟子として稽古に励みました。
 
 
その後、近藤らとともに浪士組に入隊して上洛、「新撰組」に入隊します。
 
 
「源さん」の愛称で親しまれ、鬼の副長・土方でさえ彼の前では故郷の話など談笑を楽しんだそうです
 
 
「鳥羽伏見の戦い」で敵の銃弾を被弾し、土方歳三に看取られながら亡くなりました。

 


 

◆七番組組長・谷三十郎

 

 
谷三十郎(たにさんじゅうろう)は、備中松山藩士・谷三治郎供行の嫡男として備中松山に生まれた武士です。
 
 
彼は慶応二年(1866年)4月1日に亡くなりました。
 
 
彼の死については、詳細は不明なのです。
 
 
新選組が会津藩に提出した記録では、「京都東山の祇園社の坂下にて頓死」とのみあります。
 
 
切腹の介錯に失敗して切腹になった(厳しすぎないか?)とか斎藤一に殺害されたとかいろいろ言われていますが、謎のままです。
 
 
とにかく誰かが暗殺されたら斎藤一が疑われるという・・・
 
 
よっぽどヤバい人って思われてたようですね。

 
 

◆八番組組長・藤堂平助

 

 
藤堂平助(とうどうへいすけ)は江戸生まれで、自分で津藩主の藤堂高猷(たかゆき)のご落胤だと言っていたそうですが真偽は不明です。
 
 
剣の腕前はなかなかのもので「北辰一刀流」を学び、後に近藤の天然理心流の道場「試衛館」にも顔を出すようになりました。
 
 
近藤らとともに上洛した同郷の仲間です。
 
 
彼は「池田屋事件」で最初に斬りこんだ近藤隊の1人でした。
 
 
しかし、途中で「新選組」から離脱し「油小路の変」で「新撰組」に討たれて亡くなりました
 
 
詳細はこちらに↓

 


 
 

◆九番組組長・鈴木三樹三郎

 

 
鈴木三樹三郎(すずきみきさぶろう)は、御陵衛士の伊東甲子太郎の弟です。
 
 
「新選組」がテーマの作品では存在自体スルーされることがほとんどという地味な存在です。
 
 
「油小路の変」で、兄の遺体を引き取りに行ったところ永倉新八らの襲撃を受けて薩摩藩邸に逃げ込み生還。
 
 
大正時代まで長生きしました。

 
 

◆十番組組長・原田左之助

 

 
原田左之助(はらださのすけ)は、短気で竹を割ったような一本気な性格だった槍使いのイケメンです。
 
 
「新選組」では殿軍(しんがり)の十番組組長を任されました。
 
 
彼は愛妻家として知られていて、非番の日には子供を抱いて屯所に遊びに来ていたそうです。
 
 
永倉新八と仲が良く、家族思いのエピソードがいくつか残っています。
 
 
甲陽鎮撫隊まで「新選組」とともに戦っていましたが、その後、近藤らと袂(たもと)を分かち、永倉新八とともに「靖兵隊」を結成しました。
 
 
ところが、途中で用事を思い出したと山崎宿(千葉県)で靖兵隊を離れ江戸に戻って「彰義隊」に加入したといわれます。
 
 
「上野戦争」の際に負傷し、その傷がもとで亡くなったと伝わります。
 
 
でも、「彰義隊」の名簿には名前が載っていないので、生存説もささやかれるのでした。

 


 
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