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こんにちは。
今日は、最後にして最大の士族の反乱「西南戦争」が起こった理由についてお伝えします。
西郷隆盛は、もともと明治政府と戦うつもりはなかった、始まってからも消極的だったといわれます。
力の差は歴然なので、負けるのはわかっていたのではないかともいわれます。
それでも「西南戦争」の総大将になったのはどうしてなのか?
今回は、その鍵となる「私学校」を中心にお伝えします。
士族の不満がたまりまくっていた原因は⇒★こちらをご覧ください♪
目次
西郷隆盛はなぜ西南戦争を起こしたのか?
西郷隆盛は、どうして明治政府に対して無謀な戦いをしたのでしょう。
1873年(明治六年)、西郷隆盛は「征韓論」に敗れて中央政界を去り薩摩に帰りました。
「征韓論」とは武力によって朝鮮の鎖国排外政策を打ち破り、勢力を伸ばそうという主張です。
西郷隆盛は、それまで政界の中心にいたので、士族が無用の存在になるということはわかっていたでしょう。
だから、士族に新しい活躍の場を与えることはできないか考えていたのです。
その1つが、士族たちの活動の場を、国外(朝鮮)に見出すことだったのではないかともいわれます。(秀吉と似てるかも?)
でも、この考えは、大久保利通や木戸孝允らに押さえ込まれ、西郷隆盛や板垣退助などの「征韓派」は中央政界から退き故郷に戻りました。(「明治六年の政変 」)
西郷隆盛・鹿児島に私学校を設立
鹿児島へ下野した西郷隆盛は、ゆったりリタイア生活を過ごしていました。
彼は病的な肥満だったので、飼っていた犬たちとウォーキングがてら釣りに行ったりうさぎ狩りに行ったり・・・
でも、維新の英雄・西郷隆盛のもとには、政府への反感を募らせる若者たちがどんどん集まってきたのです。
明治政府は、士族の特権をどんどん奪っていきました。
頭の柔らかい人たちは、転職に成功しましたが、いつの時代も転職は難しいものです。身分が固定されていたこの時代、今より厳しかったでしょう。
そのため、日本各地で「不平士族」による反乱が連鎖のように起こっていたのです。
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佐賀の乱(1874年)
神風連の乱(1876年)
秋月の乱(1876年)
萩の乱(1876年)
そこで西郷は、彼らの不満を抑えるために鹿児島に「私学校」を設立したのでした。
「私学校」は1874年に設立された士族中心の学校でした。
本校はもと近衛兵の「銃隊学校」と砲兵出身者の「砲隊学校」で構成されていました。
銃隊学校は篠原国幹が監督したもので生徒数は500~600人、砲隊学校は村田新八が監督し生徒数は20人ぐらいいました。
学課は軍事だけでなく座学(漢学)も講じ、順番に当直が決められていました。登校時間は9時間から正午とまで、午前中だけでした。
西郷隆盛が私学校を作ったのは、あくまで若い薩摩の士族の政府への不満をそらすためでした。
でも、その思いとは反対に、この私学校が士族たちの反政府の拠点になってしまったのです。
私学校の急進派、篠原国幹、村田新八、桐野利秋、別府伸介らが、「西南戦争」の主導者になりました。
「西郷が私学校を創った!」「私学校の生徒たちが蜂起しようとしている」という不穏なうわさが、明治政府にも届きました。
この私学校は本校だけでも2000人以上、分校を合わせると3万人近くになりました。かなり大きな勢力担ったと分かりますね。
明治政府が送り込んだスパイが使えなかった?
そこで明治政府が考えた策が、諜報活動でした。
政府から鹿児島へ20名ほどの警察官を諜報員(スパイ)として送り込んだのです。
今の「公安」みたいな感じですね・・・
でも、田舎の地方によそ者は目立ちすぎます。絶対怪しまれますよ~。
案の定スパイたちは、私学校の生徒に捕まってしまいました。
するに捕まるって、使えない奴ら・・・
と思ってしまいますが、きっと彼らは諜報などの特殊訓練を受けてなかったと思うので仕方がありません。
私学校の生徒が戦う気満々だった!
私学校に捕まった政府のスパイは「 西郷隆盛を暗殺しようとしていた」と自白しました。
これは、真偽不明です。きっと責められたでしょうから、私学校側のでっち上げだった可能性が高いです。
また、このときスパイが「視察しに来た」と言ったのを「刺殺しにきた」と聞き間違えたという「ネタですか?」と言いたくなるような説もあります。
なんにせよ私学校の生徒たちは、政府に対して戦争を起こす気満々だったのです。薩摩隼人たち、血の気が多すぎます。
「スパイの自白」を理由に政府に蜂起しようと訴える私学校の生徒に対し、西郷隆盛は思いとどまるように説得しました。
西郷は戦う気などなかったのです。(負けるの分かってますから)
きっかけは私学校生とによる政府の武器庫襲撃
1877年、鹿児島で不平士族が集まっていて危険だと感じた明治政府は、鹿児島の政府所有の弾薬庫から4000発の弾丸を運び出そうとしていました。
しかし、それを見つけた私学校の生徒たちが、戦争を起こすためだと思って妨害し、弾丸を奪い去ってしまったのです。
それが、戦争の直接のきっかけでした。
西郷はこのとき「しもた!(しまった)」と言ったと伝わります。
戦争をしてはいけないと思って言ったのか、時まだ早しと思って言ったのかは謎ですが、戦う意欲がなかったのは確かなようです。
それでも、西郷は彼らと共に戦うことに決めました、
結局、士族たちの不満を一身に背負い、明治政府にたてつく者たちを引き連れて死んでいったのでした。
「西南戦争」の戦いの流れや主要人物は、→こちらをご覧ください。
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おわりに
西南戦争の中心人物は、西郷隆盛が政府への不満をそらそうとして作った「私学校」の急進派幹部によるものでした。
中心人物は、篠原国幹、村田新八、桐野利秋、別府伸介らです。
彼らについては、また次回くわしくお伝えします♪
【関連図書】
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「西南戦争」のことが、よくわかりますよ。「中公新書」は新書の中でも読みやすい書物が多いのでおすすめです。