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こんにちは。
今回は日本最大の士族の反乱「西南戦争」の流れをみていきます。
士族が大きな不満を持った理由は、⇒★こちらの記事をどうぞ♪
西郷軍VS政府軍(官軍)の戦い
西南戦争の中心人物は、西郷隆盛の作った「私学校」の幹部たちでした。
それに対し、明治政府が西郷軍を制圧するために派遣したのは、山県有朋(元長州藩士)率いる陸軍と川村純義(元薩摩藩士)率いる海軍です。
政府軍の総司令官は、有栖川宮熾仁親王でした。
力は薩軍が約3万だったのに対し、政府軍(官軍)は7万ほど。開戦から約7カ月で官軍の勝利で幕を下ろしました。死者は、官軍約6400人、西郷軍約6800人、官軍側も結構多いですね。
初戦は「熊本城強襲」、
激戦地は「田原坂(たばるざか)の戦い」など
決戦地は「城山(しろやま)」
でしたよ。
「西南戦争」の戦場はたくさんあった!
西南戦争は、一カ所で行われた合戦ではなく、九州の複数の場所で戦いが繰り広げられました。
始めに武力衝突が起こったのが熊本城、最期の決戦の場所が鹿児島の城山でした。/span>
(1)熊本城強襲~戦いの始まり
始めに官軍が立てこもった「熊本城」とその近辺は、たいへん激しい戦場になりました。
西郷軍は熊本城を攻撃して短期決戦で落とす予定でしたが、官軍は兵力も武器の性能も勝っていたので、2カ月もの長期戦になりました。
西郷軍が包囲を解いた後は、凄まじい野戦になりました。最終的には官軍側が優勢になりました。
(2)田原坂(たばるざか)~最大の激戦地
田原坂は、西南戦争の激戦地となった有名な場所です。「田原坂の戦い」で知られますよ。
ここは熊本城強襲策から転じて長期包囲戦を決めた西郷軍が、南下してくる政府軍(官軍)を迎え撃った戦場で、1ヶ月間に及ぶ戦いでした。
この戦いで、今後の戦争の方向性が決定づけられることになり、勝った官軍がその後の戦況を優位にすすめていきました。
死者が多数出た激しい戦いでした。
(3)都城(みやこのじょう)~薩軍の敗北が決定的に
熊本県から撤退した西郷軍は、並行して戦っていた鹿児島でも敗退し、宮崎県の「都城」に集結しました。
でも、ここも官軍の総攻撃を受けて占領されてしまいました。
この戦いの敗戦で西郷軍の敗北は決定的となり官軍に投降する者が相次ぎました。
(4)可愛岳(えのだけ)~解軍宣言をした場所
和田峠で敗れた薩軍は宮崎県まで退き、そこでも官軍に包囲されてしまいました。
西郷隆盛は、ここに着て「解軍」を宣言しました。
「降伏する者は降伏をし、最後まで戦うという者は戦って死のう」という選択の自由を与えたのです。
多くの者は降伏する道を選んで、後に残ったのは1000人ほどだったそうです。
残った者たちは、鹿児島へ戻って再起を図ろうとし、可愛岳を突破しました。
官軍の警備が手薄な北側から下山し、彼らは突破に成功しました。
(5)城山~西郷が自害した決戦の地
「西南戦争」の最後の決戦の場は鹿児島の城山(しろやま)でした。
鹿児島に戻った西郷軍は、鹿児島市を占領し城山に布陣しました。ところが、すぐに官軍の反撃にあい、城山を完全に包囲されてしまったのです。
戦いは官軍の総攻撃で始まり、数時間後には官軍勝利で幕を下ろしました。
西郷隆盛は、この城山で敵の銃弾を受けて負傷し切腹しました。
抜刀隊との壮絶な白兵戦
西郷軍の兵たちは、刀を持って鬼のように斬り込んできたため、官軍はそれに苦戦を強いられました。
官軍は最新式の銃を装備していましたけど、当時の銃は充填するのに時間がかかります。弾を込めている間に襲われるリスクが高かったのです。
そこで、政府は警察官による「抜刀隊」を投入することにしたのです!
「警察官抜刀隊」は内務省警視局職員(後の警視庁警察官)を中心にして、臨時に組織された「白兵戦専門部隊」でした。
抜刀隊の武器は「日本刀のみ」です。
抜刀隊には、薩長に深い恨みのある旧会津藩士もたくさん参加したことで知られていますよ。
会津藩士とともに暮らしていた元新撰組3番組組長・斎藤一が所属し参戦しました。
斎藤一の活躍は、当時、東京新聞に掲載されましたよ。
抜刀隊は奇襲攻撃で薩軍をほんろうし、こうちゃく状態の戦場で一点突破する重要な役割を果たしました。
でも、危険きわまりない任務だったので、死亡した警察官も多く、全滅した部隊も少なくなかったそうです。。
この戦争の終結は、士族(武士)の滅亡を象徴するものでした。
それから先、日本に武士という軍人階級がなくなり、徴兵制による国民皆兵が始まったのです。
「西南戦争」の主要人物
「西南戦争」は幼ななじみの親友同士が敵になったり、兄弟・従弟が敵味方に分かれたりしたので、ややこしいです。
西郷軍の中心は、西郷隆盛に心酔する「私学校」の急進派の幹部たちでした。
(1)西郷軍の主要人物
◆西郷隆盛
「西南戦争」の薩軍総大将。
明治維新の立役者の1人でした。
彼は反乱を起こしたくなかったそうですが、たまりにたまった士族の怒りがもはや制御不可能と悟って、彼らとともに戦うと決めました。
戦では直接指揮したり戦術を考える事は一切なく、幹部たちにその身を任せていたといわれます。
最期は、銃弾を受けて死を覚悟し、別府晋介の介錯を受けて自害しました。
◆篠原国幹(しのはらくにもと)
廃藩置県にも貢献した薩摩藩士で、明治新政府で陸軍少将にまで昇進した人物です。
でも、西郷が参議を辞めて鹿児島に下野すると、それに従い辞職しました。
鹿児島では私学校の監督を務めていましたが、西南戦争にはいち早く賛同した中心人物です。
戊辰戦争の局地戦の1つ「上野戦争」では旧幕府側の「彰義隊」相手にもっとも激戦だった正面を担当した勇猛な戦士でした。
その勇猛さに明治天皇も感心し手本にするようにと言われたそうです。
西南戦争でも激戦地の「田原坂の戦い」などで奮戦しました。
最期は陣頭に立って指揮をとっているところを官軍に銃撃されて戦死しました。彼が着ていた赤裏の外套が目印となり、狙い撃ちされたのです。(ドラマや小説の見せ場の1つ)
その果敢な勇将の死は、反乱軍の戦意を大いに高めたと伝わります。
◆桐野利秋(きりのとしあき)
若い頃は中村半次郎と名乗っていました。通称・人斬り半次郎です。
幕末の戊辰戦争でも西郷隆盛のもとで働き、西郷に心酔していた薩摩藩士の1人です。新選組による池田屋事件の頃には、薩摩藩のために動いていました。
西郷が薩摩藩に戻ると知るとすぐに辞職して、私学校では監督になりました。彼はとてもオシャレな人で、香水をつけ、政府軍の置いていったシルクハットを気に入り、それをかぶって戦争の指揮をしていたそうです。
西南戦争の際には4番隊隊長として中心的な役割を果たします。西郷の自決を見届けた後、隊を率いて敵に突撃して戦死しました。
【関連記事】桐野利秋とは?
◆別府晋介(べっぷしんすけ)
別府晋介も戊辰戦争で戦った薩摩藩士です。征韓論が起こったとき、朝鮮半島に偵察しに行きました。
彼は桐野利秋の従弟で、桐野とは親しかったようです。
別府晋介も西郷隆盛に従って鹿児島に下野した1人で、私学校の監督となりました。
西郷と共に西南戦争を戦い、西郷の介錯を行った人です。その後、明治政府軍の銃弾の中に突撃して命を落としました。
官軍(政府軍)
◆大久保利通(おおくぼとしみち)
薩摩藩出身の官僚で内務卿。
西郷隆盛とは家が近所で幼なじみ、同じ郷中出身です。
「明治6年の政変」で西郷と意見が対立し、彼が官職から退く原因を作りました。
西南戦争では直接戦地には入っていません。
京都にて指揮をとり、上野公園で第1回内国勧業博覧会を開催しました。
彼は官僚政治の実現を目指していたので、士族を滅ぼす必要があると考えていました。
◆山県有朋(やまがたありとも)
元長州藩士で松下村塾出身です。明治政府では陸軍卿を務め、徴兵制を制定しました。
西南戦争では陸軍参謀として直接指揮し、大久保・川村らの「薩摩閥」に対して「長州閥」の代表になりました。
最終決戦の「城山の戦い」の直前に、西郷隆盛に降伏勧告をしましたが聞き入れられませんでした。
後に、内閣総理大臣に就任します。
◆川村純義(かわむら すみよし)
西郷隆盛と同じ薩摩藩出身で西郷の遠戚関係ということで重用されました。
明治政府のもとで海軍の重鎮となり、西郷が下野したとき明治政府に残った1人です。
西南戦争で海軍の薩摩閥(陸軍は長州閥)として参戦し、海から砲撃して陸軍を援護しました。
彼は生涯軍人として生き、政治の世界に足を踏み入れることはありませんでした。
明治天皇からの信認が厚く、孫(後の昭和天皇)の養育を命じられました。
【参考図書】
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