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こんにちは。
 
 
榎本武揚(えのもとたけあき)は、戊辰戦争の最終戦「函館戦争」(五稜郭の戦い)で新政府軍と戦った旧幕府側の軍人です。
 
 
でも、降伏した後、極刑かと思いきや釈放されて、明治新政府の要人として政治家・外交官として活躍しました。
 
 
この異例すぎる扱いにちょっと深読みしたくもなるのですが、福沢諭吉黒田清隆が助命嘆願に奔走したとのことなので、かなりの逸材だったのは確かです。

 
 

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超エリート幕臣・榎本武揚

 

 
榎本武揚は天保7年(1836年)幕臣・榎本武規(えのもとたけのり)の次男として江戸で誕生しました。
 
 
15歳のとき幕府直轄の昌平坂学問所に入学し、20歳で長崎海軍伝習所に正式に入学、機関学や化学を学んで22歳の若さで軍艦操練所の教授になりました。
 
 
とんとん拍子に出世してますね。

 
 

オランダへ5年間留学

 

 
彼は文久二年(1862年)から5年間、オランダに留学してフレデリックスについて万国海律を学びました。
 
 
留学中、イギリスやフランスに行って造船施設や機械工場、鉱山などを視察しています。
 
 
この間、語学の他、軍事学、国際法、化学など多岐にわたる知識を身に着けました。
 
 
慶応三年(1867年)3月、幕府の軍艦「開陽丸」に乗って帰国し、この「開陽丸」の船長に任命されました。
 
 
そして、翌年には海軍副総裁に就任しました。
 
 
エリート街道まっしぐらです!

 
 

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「戊辰戦争」勃発

 

 
慶応3年(1867年)徳川慶喜が政権を天皇に返す「大政奉還」が成立しました。
 
 
そして、その翌年「戊辰戦争」が始まりました。
 
 
彼は幕臣なので、もちろん旧幕府軍の一員としてこの戦争に参加しましたよ。

 
 

新政府の軍艦引き渡しを断固拒否!

 

【出典元:Wikipedia「開陽丸」】

 
戦争は新政府軍が優位に立ち「江戸無血開城」が決定しました。
 
 
旧幕府軍への降伏条件の1つに「軍艦の新政府への引き渡し」というのがあったのですが、榎本はこれを断固拒否します!
 
 
「開陽丸を渡してなるものか」という感じですね。
 
 
そうして彼は、旧幕府軍を支援しながら「開陽丸」など8艦の艦隊を率いて、「奥羽越列藩同盟」を支援しようと品川から東北に向かったのでした。

 
 

戊辰戦争の最終決戦地「函館」へ

 

 
ところが、榎本武揚が仙台についたとき、すでに「奥羽越列藩同盟」は崩壊していて、仙台藩も降伏を決定していました。
 
 
新政府の仙台藩入城を受けて、榎本武揚は桑名藩主・松平定敬(さだあき)や大鳥圭介、土方歳三率いる「新選組」隊士たちと合流します。
 
 
そうして、彼は総勢約3,000名を軍艦に収容して、蝦夷地(北海道)を決戦の地と決めたのです。

 

 

函館戦争(五稜郭の戦い)

 

 
榎本武揚率いる旧幕府軍は、箱館に進軍して五稜郭を占領しました。
 
 
その後、「蝦夷地平定」を宣言し、士官以上の者たちの選挙で榎本武揚が総裁に就任したのです。
 
 
でも、不運なことにこのとき急な嵐に襲われ、彼の率いてきた軍艦が2隻も沈んでしまったのでした。
 
 
そうして、圧倒的な兵力差で新政府軍に追い詰められ、その総指揮官・黒田清隆(くろだきよたか)の説得に応じて降伏したのでした。

 
 

明治新政府の要人に転身?

 
 

黒田清隆・福沢諭吉が助命嘆願

 
 
5月18日に降伏する数日前、榎本は降伏拒否の回答状とともに、オランダ留学時代から肌身離さず持っていた「万国海律全書」を、戦火で失われるのを避けるため新政府軍海軍参謀に贈りました。
 
 
この本には航海に関する国際法が書かれており、榎本はオランダ留学中にこれを写し取って持ち帰っていたのです。
 
 
その「万国海律全書」を見た指揮官の黒田清隆は、榎本武揚は今後の日本の外交に必要な逸材だと確信します。
 
 
彼は海軍参謀名で榎本に感謝の意を表し、酒5樽と肴を送りました。
 
そうして黒田は、榎本武揚が投獄された後、福沢諭吉とともに榎本武揚の助命嘆願に奔走し、榎本武揚は特赦によって助かったのです。
 
 
出獄後、彼は黒田清隆が次官を務めた開拓使に登用されて北海道開拓の調査をした、ロシア駐在公使となって「樺太・千島交換条約」を締結しています。
 
 
榎本はその後も数々の外交交渉の調印などで活躍し、伊藤博文内閣のとき初代逓信大臣となって子爵の位を与えられました。
 
 
そうして、文部大臣や農商大臣、外務大臣など数々の政府大臣を歴任して、東京農業大学の前進・育英黌農業科(いくえいこうのうぎょうか)の開校、メキシコ植民など、晩年まで多くの事業で活躍したのです。

 
 

子供同士が結婚?黒田清隆と親戚に

 
 
最後まで新政府に敵対していた榎本武揚が、政府の要人として数々の大臣職につけたのは、敵の司令官だった黒田清隆が頭を丸めて(丸坊主にした)まで、榎本武揚の助命嘆願を訴えたからでした。
 
 
釈放されてから、彼らは友人・同志としてともに国家の難問に取り組み、家族ぐるみの付き合いをしていました。
 
 
そして、榎本武揚の長男と黒田清隆の娘が結婚し、お互いが子供の舅になるという血縁関係に発展したのです。すごい濃い関係になっちゃいましたね。
 
 
それだけ榎本さんに能力と人間的魅力が備わってたということでしょうか?
 
 
私としては、あの福沢諭吉が助命嘆願に動いたというところがポイント高いです。(あまり政治家好きそうじゃない人ですから)

 
 

土方歳三の親族とのいい話

 

 
榎本武揚と土方歳三との出会いは、偶然でした。どちらも旧幕府軍の一員として北上し、たまたま仙台で会ったのです。
 
 
榎本武揚と土方歳三との関係は、ドラマなどでは少し敵対する設定になってたりしますが、くわしい史実は残っていません。
 
 
土方歳三が戦死した最後の戦いの現場に、榎本武揚はいませんでした。
 
 
でも、明治時代になり、政府の要人として働いていた榎本の元に土方歳三の甥の隼人策助という人が訪ねたことがあります。
 
 
そのとき、榎本は土方歳三を偲んで彼の生前の話をしながら、隼人の手土産の多摩の地酒を口に運んだそうです。
 
 
そうして、「入室伹清風(にゅうしつしょせいふう)」という「書」を書いて隼人に手渡しました。
 
 
「入室伹清風」とは、部屋に入ってくると清らかな風が流れるような爽やかな人物と言う意味です。
 
 
それが、榎本が土方歳三に対して感じた印象だったのです。
 
 
その「書」は、現在も「土方歳三記念館」に展示されています。
 
 
なかなか温かい情のある人だなーと思えます。思い切って訪ねた親族としてはうれしいですよね。
 
 
土方歳三については、こちらでもお伝えしています。あわせてどうぞ。
  
    ↓


 

榎本武揚の家族は?

 

 
榎本武揚は、語学はもちろんのこと、航海術、化学、国際法、外交などを修めた理系も文系もばっちりのエリート官僚でした。
 
 
彼の子孫にはどんな人がいるのでしょうか?
 
 
と、その前に、榎本武揚のお父さんが異色なので紹介します。

 
 

パパは伊能忠敬の一番弟子!

 

 
彼の父親・榎本武規は、「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」を作成した伊能忠孝(いのうただたか)の一番弟子だったのです。
 
 
当時、彼は武士ではなく裕福な町人(庄屋)でした。(武士の身分は後にお金で買ってます。そういう時代でした)
 
 
武規は、実際に、伊能忠敬の九州測量以降の実測にも同伴して地図作りに貢献していたのでした。

 
 

子孫はいろいろいるけれど


 
榎本武揚の妻は「たつ」という女性で、子供は彼女との間に3男3女いました。
 
 
榎本武揚の長男・武憲は内閣総理大臣を務めた黒田清隆の娘と結婚し、榎本家と黒田家は縁戚関係になっています。今も交流は続いているそうです。
 
 
榎本武揚のひ孫(武憲の孫)の榎本隆充氏は、東京農業大学客員教授を務めていて、榎本武揚についての書籍をいくつか出版しています。
 
 
他には、俳優の石黒賢(いしぐろけん)さんが、なんと榎本武揚の縁戚(兄の子孫)にあたる人だったのです。意外ですね。

 
 
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