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こんにちは。
 
 
幕末の戊辰戦争で江戸が戦火を免れたのは、西郷隆盛と勝海舟の話し合いの結果といわれます。
 
 
江戸を火の海にと息巻いていた西郷隆盛が、あたかも勝海舟の弁舌にやられたかのように伝わりがちですが、
 
 
勝海舟が話し合いをする前に、慶喜の命を受け西郷の元を訪れた幕臣がいます。
 
 
ドラマでよく出てくる篤姫和宮の嘆願は、本人たちが誠心誠意を尽くしたので美談にはなりますが、たいした効力はなかったでしょう。
 
 
今回は、江戸城引き渡しをいちばん始めに申し出た山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)に注目して「江戸城無血開城」の理由をお伝えします。
 
 
山岡鉄舟についてはこちらを⇒★顔も中身もイケメン幕臣!「山岡鉄舟」
 

 

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江戸城開城・最初の使者は山岡鉄舟だった

 

 
1868年1月の「鳥羽伏見の戦い」で始まった「戊辰戦争」は、新政府軍の優位で進みました。
 
 
「戊辰戦争」は新政府軍(薩長中心)VS旧幕府軍(徳川・会津など)の戦いです。
 
 
江戸へ向かって進軍を続けた新政府軍は、3月5日には駿河(静岡県)に到着し、15日に江戸城総攻撃を開始するという命が下されました。
 
 
でも、このとき新政府軍は大きな問題を抱えていたのです。
 
 
・・・財政難です。
 
 
当時、駿府城には約1700両(約2億円)の資金がありましたが、戦争はすごくお金のかかる事業です。
 
 
それでは全く足りなかったのです。
 
 
そのタイミングで、慶喜の命を受けた幕臣の山岡鉄舟が、江戸城開城を申し入れてきたのでした。
 
 
こういう状況の場合、一番始めに話を切り出す人が最も大変で危険です。勝海舟は山岡鉄舟がおおかたの話をまとめてから登場しているのです。
 
 
山岡鉄舟が西郷隆盛に会いに行こうとしたとき、江戸の至る所に血気盛んな薩摩軍がいたので、かなり危険な状態でした。
 
 
総攻撃が行われないだけで、すでに江戸城下町は薩摩藩浪士による乱暴狼藉、略奪が行われていました。当然、庶民も犠牲になっていたでしょう。
 
 
そんな江戸の町を、山岡鉄舟は死を覚悟して1人の供だけを連れて新政府軍の本陣へ乗り込んだのでした。すごい度胸ですよ。
 
 
そんな鉄舟に応対した西郷隆盛は、彼に会って大きく心を動かされました。
 
 
西郷隆盛は山岡鉄舟のことを、後にこう言って称賛しています。
 
 
「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」(by西郷)
 
 
山岡鉄舟はそんな謙虚な人なので、西郷と会談した自分の功績を吹聴することはありませんでした。
 
 
一方、自分の手柄だと吹聴しまくった人がいます。
 
 
勝海舟です。(←おちゃめな江戸っ子)
 
 
勝海舟は西郷に丸投げされた事後処理に奔走してしっかり仕事はしているのですが、この人は自画自賛タイプなので、うっとおしいところがあります。(←元弟子の坂本龍馬も指摘している)
 
 
では、山岡鉄舟に西郷隆盛が出した慶喜助命の条件を見ていきましょう。

 

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慶喜助命のための7つの条件

 

 
西郷隆盛は慶喜を助命するための7項目の条件を示ました。
 
 
それがこちらです。
 
 
1.徳川慶喜の身柄を備前藩に預ける
 
2.江戸城を明け渡す
 
3.軍艦をすべて引き渡す
 
4.武器をすべて引き渡す
 
5.城内の家臣は向島に移って謹慎
 
6.徳川慶喜を補佐した人物を厳しく調べ処罰する
 
7.暴発の徒が手に余った場合は官軍が鎮圧する
 
山岡鉄舟は、1項目の「徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること」だけは絶対にできないと承服しませんでした。
 
 
そして、彼は言いました。「もしあなたが私の立場だったら、島津久光公の他藩預けを承諾できますか?」と。
 
 
この真正面からぶつけられた正論に対し、西郷には反論の余地はありませんでした。
 
 
これまで京の都で汚い権謀術数を見てきた西郷にとって、武士道精神を極めた山岡の誠実さは胸に迫るものがありました。
 
 
「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」
 
 
「わかりもした」そう言って西郷は、山岡の要求を受け入れたのです。
 
 
山岡鉄舟はそれを聞いて涙したそうです。「江戸の町」と「主君」を守ることができたのですから、感慨深かったのでしょう。
 
 
ということで、勝海舟より前に山岡鉄舟と西郷隆盛の会談で、江戸無血開城は決まっていたのでした。

 
 

イギリスの思惑もからみついていた?

 

 
新政府軍に味方するイギリスの公使パークスは、江戸総攻撃のことを事前に西郷から聞きました。
 
 
そのとき彼は、江戸城総攻撃に断固反対したのです。
 
 
パークスは、もう旧幕府軍は完全に戦意喪失しているので、これ以上の攻撃は無意味だ、白旗を挙げている敵を打ちのめすのは国際的に極めて非人道的なことなのだと非難しました。
 
 
確かにその通りです。
 
 
でも、これはイギリスの建前で、本音は別のところにあります。
 
 
江戸はこれから「お得意さん」になるので、「これ以上打撃与えられると商売あがったりやわ」というのが本音です。
 
 
海外情勢に明るい勝海舟もイギリス側の総意を知っていたと思われます。
 
 
そんなとき、山岡鉄舟が江戸城引き渡しの提案をしてきたので、新政府軍にとってはある意味渡りに船だったのでした。

 
 

おわりに


 
西郷隆盛と山岡鉄舟の間は、戊辰戦争が終わってからも一緒にお酒を飲み交わす仲になりました。
 
 
そして、明治新政府の体制が整うと、西郷は山岡鉄舟を明治天皇の侍従に推薦したのです。
 
 
彼は明治天皇との関係も、良好だったようですよ。

 
 
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