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こんにちは。
最近、『平家物語』を読み返していて、脳内が「源平の合戦」になってます。
いいですね~『平家物語』♪♪
魅力的な人がたくさん出てきます。
無常観がたまらんです。
この戦いの一番のヒーローは、源義経なのでしょうね。判官贔屓という言葉が残る悲劇のヒーローです。
義経は、朝廷や権力者に虐げられた者たちの仮託として、その死後、伝説の人となりました。
一般的にかなりの人気者ですが、今回は、反対に頼朝目線で考えると、やっぱり義経は生かしておけないよなというお話です。
目次
源氏の棟梁の正当性を持つ2人の兄弟
源頼朝と源義経は、兄弟とはいえ、まったく育ちが違います。
そもそも初めて会ったのが、「富士川の戦い」の後、大人になってからなのです。なので、身内の情なんてそもそもないはずです。
人気者より嫌われ者のほうが気になる私は、頼朝の度量の小さい所や警戒心の強さなどが、人間味があるなーと気になるのです。
この兄弟、どちらも河内源氏の棟梁としての正当性がありました。
つまり、富士川での出会いは、麗しき兄弟の対面などという美談ではなく、未来の敵を確認した瞬間だったのかもしれないのです。
伊豆で流民生活をしていた頼朝
源頼朝は、源義朝の3男で、「平治の乱」で父の義朝が平清盛に敗れた際、14歳で伊豆国に流されます。そこで、後に妻となる北条政子の実家・北条氏の監視下に入るのです。
都の雅な世界など知るはずもない、常に平氏に監視された不遇の生活です。(その割には、しっかり色恋してますが)
そんな流民生活を、頼朝は20年余り続けたのでした。
スター性を持つ貴族的な義経
一方の義経は、「平治の乱」のとき、わずか2歳です。
そして、彼の母・常盤御前(ときわごぜん)が、なかなかの女性なのです。
常盤御前は、元は雑仕女という身分の低い女性でしたが、その美貌で源氏の棟梁・義朝の側室になり、正妻(頼朝の母)亡き後、次の正妻に成り上がった絶世の美女です。
「平治の乱」で義朝が敗れると、平清盛の愛妾になり、子供を産んだともいわれています。その後は、一条長成という貴族に嫁ぎました。
ただの美女でなく、かなり処世術があると分かります。彼女は、おそらく都にかなりの人脈を持っていたと思われるのです。それが、都の北の鞍馬寺に預けられていた義経の人脈となっていったのでした。
義経は、都の貴族文化に触れ都の言葉を話し、平氏の栄華を肌で感じながら育ったのです。
そして、16歳のとき、奥州藤原氏の支配する平泉に行きました。
当時の平泉は都に匹敵する巨大都市だったのですよ。黄金と馬の産地で都の最先端の文化が伝わり、おそらく、洗練された京風言葉(貴族の言葉)を使う大都市でした。
源義経は、そんな都の貴族文化の中で育った人だったのです。
兄弟の軋轢は東西文化の軋轢
源義経は天才的な戦略で次々と平氏との戦いに勝利し、1185年、ついに「壇ノ浦の戦い」で平氏を滅ぼしました。
この2人は、富士川で出会ってから、おそらくお互いに不満と不信の感情が積み重なっていたと思われます。
でもストッパーがあったので、表面化しなかったのです。
そのストッパーというのは、共通の敵、つまり平氏の存在です。
ですから、その平氏が滅んだら軋轢が表面化するというのは、当然と言えば当然なのです。
義経は戦勝を重ねる際に、頼朝に報告やうかがいを立てることがほとんどありませんでした。かなり頼朝をないがしろにしています。兄として司令官としてムカツクのは当然でしょう。
そして、彼は東国武士と同調できずに争いを繰り返しました。鎌倉にいる頼朝をイラつかせるには十分です。そうして、頼朝は義経の戦功を認めず、パワハラか?というような態度をとり続けます。
そうこうするうちに、義経は朝廷(後白河法皇)から五位の官位を与えられて喜んだのでした。五位というのは昇殿を許される、つまり「貴族社会の仲間入り」を意味する位なんです。
これは、朝廷の支配を脱し鎌倉に武士の政権を作ろうとしていた頼朝にとって、許しがたいことでした。
頼朝は他にも官位を与えられた御家人に対して、「愚か者」「イタチにも劣る」など罵倒する手紙を書いています。彼は結構いろんな人に対して、素直に悪口を書き残している人なんです。
決定的なビジョンの違い
源頼朝の目指した日本は、東国の武士団をまとめ東方の鎌倉で新しい武家政権を作ることでした。
一方、義経はあくまで旧制度のまま、朝廷の下で武士が仕える組織のトップになる事が目標だったのです。
義経が目指したのは、平氏を滅ぼした今、自分がかつての平清盛のポジションにつくことでした。ですから、後白河法皇に重用されるのが、とても大事なことだったのです。
でも、朝廷にとって武士はしょせん犬です。旗色が悪くなれば、すぐに捨てられてしまうのでした。
そうして、義経は、最終的に後白河法皇にも見捨てられ、追討の院宣を出されたのでした。(⇒謀反人認定)
頼朝は義経が本当に大嫌いだった?
頼朝は、平氏討伐の後、鎌倉入りしようとした義経を拒否します。義経は仕方なくまた京に戻るのですが、顔も見たくなかったのでしょうか。
東国の武士たちが、義経の勝手なふるまいを頼朝に言いつけていた、英雄扱いされる才能あふれる弟に嫉妬していたなど、いろいろ言われますが、多分、もうだめだなと思っていたでしょう。なぜなら、義経は東国武士たちに戦で活躍の機会を与えず、彼らの強い恨みを買っていたからです。
遠慮やチームワークが、まったくできてません。
頼朝は後々のことを考え、東国各地の武士に対して恩賞を与えるなど、果断な処置をしています。
義経は、都の復興に尽力し、一時は頼朝追討の院宣を得ながら、従う武士たちに恩賞を与えることができませんでした。挙兵したとき義経に従う武士がほとんどいなかったのは、これが大きな理由です。
ビジョンが真逆で敵対するに決まっているもう1人の正当な棟梁が、自分より戦術に長けていたらどうします?
警戒心の強い頼朝なら、生かしておけないと思ったでしょうね。
きっと、義経は猛省したふりしてどこかの寺の坊主に収まったとしても、数年後、謎の死を遂げそうな気がします。
「壇ノ浦の戦い」からわずか4年後、平泉で源義経は藤原秀衡の息子・泰衡に攻められて自刃します。
義経の首は、梶原景時らに首実検された後、腰越の海に打ち捨てられたそうです。
頼朝は、弟の首さえ鎌倉に入れず、それを見ることはなかったのです。