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こんにちは。
 
 
数々の伝説を残した英雄、源義経。
地位のある色男の例にもれず、彼もたくさんの愛人を抱えていました。
 
 
よく知られているのは、歌舞伎でおなじみの静御前(しずかごぜん)ですね。京随一の白拍子という鳴り物入りの美女とされています。
 
 
静御前は、義経が都を追われたときも同行していました。
しかし、彼女は吉野の山の中で、義経から(足手まといになるので)京に戻れと命じられました。
 
 
吉野山に行ったことはありますか?
すごい山(山脈)です。
従者がついていたとしても、ここまできて帰れとは。
吉野から京都は遠いですよ。
 
 
それで、結局、彼女は従者に金目の物を奪われた挙句、敵方(北条氏)に捕まってしまいました。
 
静御前のその後はこちらをどうぞ。
源義経の愛人・静御前★白拍子のプロ根性
 
 
一方、義経は命からがら逃げる苛酷な旅にもかかわらず、最後まで連れ添った女性がいました。しかも、赤ちゃん連れです。
 
 
それが、正室(北の方)・郷御前(さとごぜん)です。
 
 
郷御前は知名度が低く、史書にもほとんど残っていません。でも、離縁するタイミングはいくらでもあったのに、義経は奥州までしっかり一緒に連れていっているのです。

 
 

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波乱万丈の結婚生活

 

 
『吾妻鏡』によると、源義経の正妻の郷御前は、河越重頼の娘です。彼女の母は源頼朝の乳母・比企尼の次女(河越尼)でした。
 
 
つまり、この結婚は源頼朝の命で決められたものでした。
 
 
つまり、全く恋愛結婚ではなかったのです。
彼女が義経に嫁ぐため上洛したのが1184年の秋、激動の年です。
 
 
義経はこの年の1月に木曽義仲を倒して京に入り、その後、2月に「鵯越の逆落とし」で知られる「一の谷の合戦」で平家を破り(『平家物語』によるのでフィクションかも)、飛ぶ鳥を落とす勢いで連勝を重ねていました。
 
 
そして、翌年3月には、「壇ノ浦の戦い」でとうとう源氏は平家一門を滅ぼしました。
 
 
しかし、義経の快進撃はここまでなのです!
 
 
最大の功労者のはずだった義経は兄の頼朝に冷遇され、鎌倉入りを拒否されます。面会拒否です。
 
 
頼朝には十分すぎる理由があったのですが(それはまた別の機会にお伝えします)、義経には冷遇される理由がさっぱり分かりません。とにもかくにも、源氏のために身を粉にして戦った自分に対するこの冷たい態度はあんまりだと、京に戻った義経は憤りました。
 
 
義経の敵意を感じた頼朝は、部下の土佐坊昌峻(とさのぼうしょうしゅん)に追討命令を出し、義経はとうとう追われる身となってしまいました。
 
 
これは「壇ノ浦の戦い」から、たった半年余り後の出来事です。

 
 

京から奥州への逃避行

 

 
その後も、急展開が続きます。
その間、郷御前がどうしていたのかは知る由もありませんが、彼女は義経が兄に追われ都落ちするときには同行していました。
 
 
義経は、いったん西国へ逃れて、そこで仕切り直して頼朝に対抗する予定で、いくつかの船団を組んで船出しました。しかし、途中で嵐にあって遭難してしまいました。それで、仕方なく陸に戻り、近畿地方の山岳地帯に逃げたのです。
 
 
奈良の吉野山で義経が静御前に京に帰れと命じたのは、このときでした。
 
 
連れていく方が危険だからと考えたのかどうかはわかりませんが、静御前とはここで離別します。
 
 
一方、郷御前は、奥州藤原氏の元で一緒に暮らしているので、ずっと一緒に連れて行ってるのです。(途中のどこかで合流したのかもしれませんが)
 
 
東北へ向かう郷御前の腕の中には、生まれて間もない娘がいました。
赤ちゃん連れの過酷な逃避行です。
 
 
大変でも義経は、郷御前を連れて行きたかったのでしょう。
 
 
そうして、義経一向は、若い頃にお世話になった奥州藤原氏を頼って、1187年に藤原秀衡(ひでひら)のもとに到着したのでした。

 

 

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最期は夫と娘と

 

 
藤原秀衡は、たいへんな知将だったといわれます。
 
 
余談ですが、西行法師が、秀衡と遠縁で仲がよかったこともあり、ちょうどこの頃、秀衡のもとを訪れています。
 
 
西行は奥州に向かう前に、たまたま鎌倉で頼朝と会いました。この頃には、西行と秀衡は、もうかなりの高齢でした。
 
 
西行の訪れから間もなくして、秀衡は病で亡くなりました。
 
 
奥州藤原氏の家督は、次男の泰衡へと引き継がれましたが、彼の息子3人の誰もが父を超える知将とはいえませんでした。
 
 
泰衡は、「義経を主君として頼朝の攻撃に備えるように」という父の遺言を無視し、頼朝にビビって義経のいる衣川館を攻め、自刃に追い込んでしまったのです。(←自分たちが滅びる布石になった)
 
 
1189年、武蔵坊弁慶ら、配下の者が戦って時間を稼ぐ間に、義経は持仏堂に入り、郷御前と4歳の娘をその手にかけました。
 
 
そして、その後、自ら命を断ったと伝えられています。

 
 

おわりに

 

 
亡くなったとき、義経は31歳、郷御前22歳でした。
郷御前、お若いですね。
 
 
もともとある程度の地位のある娘なので、頼朝と義経が不仲になった時点で、実家に帰ることもできたと思いますが、彼女は最期まで義経と共に生きました。
 
 
また、乳児を連れての妻を、見捨てることなく命からがらの逃避行に連れ出したというところに、義経の強い愛情がうかがえます。
 
 
でも、なぜか、歴史ドラマで義経の恋人(妻)と持ち上げられるのは、静御前ばっかりですね。残念です。
 
 
最期まで連れ添った妻は郷御前なのにと、少しもやっとします。もう少し、歴史ドラマなどでも登場するとおもしろいのにと思えるのでした。

 
 

【源平の争乱のまとめ記事】
 

「源平合戦」の流れは『平家物語』を読むとわかりやすいよ!

 
 
 

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