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こんにちは。
 
 
西郷隆盛は、会って話をすると誰もが好きになるような引力を持つ人だったといわれることがあります。
 
 
それを身をもって示したのが、この村田新八(むらた しんぱち)です。
 
 
少ない史料から伝わる彼の最期を考えると、ほんっとーに西郷隆盛が好きだったんだなあ(もちろん人として)と、思えます。

 
 

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西郷・大久保と同じ「郷中」の後輩だった

 
出典元:https://ja.wikipedia.org/wiki/村田新八
 
村田新八は、1836年、薩摩藩・加治屋町に生まれました。西郷隆盛や大久保利通も、この郷中出身です。幼なじみだったんですね。
 
 
西郷隆盛は、村田新八より8歳年上だったので、兄のような先生のような存在だったのでしょう。
 
 
長州の萩もそうですが、薩長出身で幕末に活躍する人たちは、同じ地域からたくさん出ていて興味深いです。
 
 
薩摩藩には「郷中教育」という独自の教育システムがありました。郷中教育というのは、同じ地域の男子だけを集めて教育し、年上の子が年下の子を指導するという教育方針です。
 
 
薩摩の藩士同士の結びつきは、他の藩から見るとすごく強く見えたらしく、衆道が多いとうわさされることもあったようですよ。
 
 
古代スパルタのソフト版のような感じでしょうか?
とにかく、村田新八は、西郷隆盛をすごく慕っていたようですよ。

 
 

喜界島に流刑になったのを西郷に助けられた

 

 
1862年に薩摩藩の島津久光が、挙兵して京都に上ろうとしたとき、西郷隆盛が先発隊として出発し、それに新八もついていきました。
 
 
西郷隆盛は、久光から下関で待つように命じられていましたが、久光の挙兵を聞いて、一気に倒幕へ進もうとする過激な薩摩藩士や浪士が、大坂や京都に集まってきたと知ります。西郷はその者たちを抑えようと考え、命令をやぶって下関から大坂に向かいました。
 
 
それを聞いた久光は激怒します。そして、西郷隆盛を徳之島に、村田新八を喜界島に流刑にしたのです。
 
 
2年後、西郷隆盛は、許されて薩摩に戻れることになったのですが、新八のことはみな忘れてしまっているかのようでした。
 
 
そのとき、西郷が新八も連れて帰らねばならんと言い、喜界島によって、新八を救出して連れて帰ったのでした。
 
 
西郷が救い出さなかったら、もしかしたら、新八はそのまま喜界島から帰れなかったかもしれないのです。
 
 
村田新八は、このときの恩義を、最期の最期まで忘れませんでした。

 
 

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薩摩藩士として活躍

 

 
倒幕の気運が高まる中、村田新八は、木戸孝允(桂小五郎)坂本龍馬などとも知り合います。
 
 
彼はかなり頭の切れる優秀な人材で、西郷のそばで活躍しました。そのため、新選組や会津・幕府軍から、命を狙われることがあったようです。
 
 
戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦いに参加しています。

 
 

岩倉使節団としてヨーロッパを視察

 

 
戊辰戦争が終わり、明治新政府ができると、岩倉具視を中心にした岩倉使節団が結成され、ヨーロッパを視察することになりました。
 
 
村田新八も、この岩倉使節団に選ばれ、参加したのです。
 
 
彼は大久保利通の命で、他の人よりも長くパリに滞在しています。パリではオペラを何度も観に行って、アコーディオンで異国の曲を弾けるまでになりました。
 
 
薩摩の貧しい下級武士の子が、いつの間にか、芸術と音楽を愛する文化人になっていたのです。
 
 
彼はアコーディオンをとても気に入り、日本に持ち帰っています。
 
 
日本では、西郷隆盛が「征韓論」で負けたことになって、薩摩に下野したという知らせが入りました。
 
 
それを聞いた新八は、びっくりしてパリからすぐに日本に戻ります。そして、西郷隆盛に会うために、そのまま鹿児島に帰ったのです。
 
 
西郷に会った彼は、そのままその地にとどまり、薩摩で私学校を作り、新政府には戻らないと決めました。
 
 
これを聞いた大久保利通は、とても残念がったそうですよ。大久保は、新八に自分の片腕になってほしかったようなのです。

 
 

戦場のアコーディオン弾き

 

 
1877年、西南戦争が起こります。
この最大の士族の反乱は、薩摩軍VS新政府軍の戦いでした。
 
 
村田新八は、息子の岩熊と共に、この戦いに参加しました。岩熊は留学経験のある前途多望の若者でしたが、新八より先に戦死しています。
 
 
対する新政府軍の抜刀隊には、会津戦争で敗れた元会津藩士が、数多く参戦していました。彼らは、薩摩と長州への恨みを忘れるはずがなく、薩摩に報復できる絶好の機会だと考えたのです。
 
 
会津とともにいた新選組の斎藤一も抜刀隊で活躍しています。その記事はこちらです。
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新選組・斎藤一のその後・会津戦争・西南戦争を戦い抜いた最後の剣士
 
 
村田新八は、この戦いにシルクハットにフロックコート姿で、アコーディオンを携えて参加したといわれます。そんなオシャレでハイカラな恰好で、軍を指揮していたのです。
 
 
ちなみに、犬が大好きな西郷さぁは、2匹の犬を連れての参戦ですよ。
 
 
西南戦争は、薩摩軍の敗北で幕を閉じました。
 
 
西郷隆盛が自決したのを見届けた後、村田新八はさらに進撃を続け、最期は自決しました。

 
 

おわりに


村田新八は、パリで西洋文化を学び、美術と音楽を愛しました。戦争でもハイカラな洋装をして、愛用のアコーディオンを手放さなかった人です。
 
 
また、和歌も漢詩も作る文化人で、多くの作品や書簡が現存しています。
 
 
そのまま明治新政府に残っていれば、かなりの逸材になった人でしょう。そう思うと、惜しい人材だなあと思います。
 
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