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こんにちは。
 
幕末の内戦「戊辰戦争」日本各地で戦われた内戦で、終結するまで16カ月以上かかりました。
 
 
その期間を西暦で表すと
1868年1月27日 – 1869年6月27日
 
 
元号で表すと
慶応四年1月3日ー明治元年5月18日となります。
 
 
まずは主要な流れを年表でみていきましょう。月日は元号によりますよ。

 
 

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「戊辰戦争」の簡単年表

 

 
◆1866年(慶応二年)
 
1.21
「薩長同盟」成立
6.7
「第二次長州征伐」
→薩摩藩出兵拒否
7.20
第14代将軍徳川家茂死没
12.5
徳川慶喜が15代将軍に就任
12.15
孝明天皇崩御
 
◆1867年(慶応三年)
 
5.4
「四侯会議」
(島津久光、松平慶永、山内豊信、伊達宗城)
5.24
徳川慶喜、四侯会議を制する
10.14
「討幕の密勅」(偽勅説あり)
10.14
「大政奉還」
11.15
坂本龍馬暗殺(近江屋)
12.9
「王政復古の大号令」
新政府樹立
12.12
徳川慶喜、二条城から大坂城へ移動
 
◆1868年(慶応4年)
 
1.3
「鳥羽伏見の戦い」
→「戊辰戦争」開戦。
1.6
徳川慶喜、江戸へ逃亡
2.12
徳川慶喜、上野寛永寺で謹慎
3.14
西郷隆盛勝海舟が会談
江戸での戦闘回避
4.11
「江戸城無血開城」
4.20
「白河口の戦い」
「会津戦争」開戦
5.3
「奥羽列藩同盟」結成
(奥羽25藩)
5.6
「奥羽越列藩同盟」に
(北越6藩が加入)
5.15
「上野戦争」
→新政府軍が「彰義隊」を玉砕。
7.29
「二本松城」(会津)陥落
「長岡城」(越後)陥落。
8.23
「会津若松城」攻防戦
→会津側は籠城
→「白虎隊」の悲劇
 
◆1868年(明治元年)
同年だけど「元号」が変更
 
9.8
「明治」に改元
9.9
米沢藩が新政府軍に寝返る
9.10
仙台藩降伏
9.22
会津藩降伏
「会津戦争」終結
10.25
榎本武揚軍が箱館を占領。
 
◆1869年(明治二年)
 
5.11
「箱館戦争」開戦
5.18
「五稜郭」陥落
→旧幕府軍降伏
「戊辰戦争」終結

 

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「戊辰戦争」は幕末の個々の内戦の総称

 

 
「戊辰戦争」は1868年(慶応四年)、新政府軍と旧幕府側との間で16カ月あまりにわたって戦われた内戦の総称です。
 
 
個々の戦いは小競り合いを含めるとたくさんあり、同時進行したのも多いです。

 
 

(1)鳥羽伏見の戦い

 

 
1868年(慶応四年)1月3日、「戊辰戦争」の始まり「鳥羽伏見の戦い」が起こりました。
 



 
 
 
それに勝利した新政府軍は、徳川幕府の本拠地・江戸を陥落させるため東に向かいました。
 
 
そのとき3つのルートに分かれて進軍したので、いろんなところで同時に戦いが起こったのです。
 
 
だから、新政府軍が東北や北陸を攻めているときに、東京で「上野戦争」が起こったりしてるのです。

 
 

(2)江戸城無血開城

 

 
2月15日に新政府軍は江戸へ向けて旧幕府征討のため進軍しました。
 
 
幕臣の勝海舟と薩摩藩の西郷隆盛が3月13日、14日に江戸薩摩藩邸で会談しました。
 
 
西郷隆盛と山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)との会談はその前の3月9日で、山岡は勝と西郷の会談にも同席しています。
 
 
15日には彼らの話し合いにより、江戸城総攻撃は回避されたのです。
 
 
その後、西郷隆盛は京都に戻り、朝議にかけて江戸城総攻撃の中止を決定し、徳川慶喜は水戸で謹慎になりました。
 
 
4月11日早朝、慶喜は水戸へ出発し、江戸城が新政府軍に引き渡されました。

 
 


 
 

(3)東北戦争

 

 
新政府軍の次のターゲットは会津藩と庄内藩でした。
 
 
会津藩主の松平容保は京都守護職を務め、倒幕勢力を武力で抑えていました。
 
 
庄内藩は江戸市中の倒幕勢力の取り締りの中心的存在だった藩です。
 
 
この二藩は、薩長中心の新政府軍の恨みを強くかっていたのでした。
 
 
1868年1月17日、新政府は仙台、秋田、盛岡、米沢各藩に会津追討令を出しました。
 
 
東北諸藩はこの新政府の方針を理不尽なものと、憤慨しました。
 
 
東北14藩は列藩会議を開き「会津、庄内藩赦免のための嘆願書」を提出しましたが、奥羽鎮撫総督はこれを却下、その後、朝廷にも赦免を嘆願しましたが、これも却下されました。
 
 
そうして、東北・北陸地方の31藩が加盟する「奥羽越列藩同盟」を結成し、新政府軍を迎え撃つしか道がなくなったのです。

 
 

1.白河城攻防戦

 
 
東北戦争の最初の戦いとなったのが、「白河口の戦い」でした。
 
 
会津(福島県)にあった「白河城の攻防戦」です。
 
 
白河城は東北方面の入口にあたり会津攻略の要地だったので、新政府軍が守備していました。
 
 
この地を取り戻そうと東北軍が攻撃しましたが、戦果は得られず後退しました。「新選組」の土方歳三、斎藤一らも東北側で参戦しています。

 
 

2.二本松城の戦い

 
 
7月29日、板垣退助が率いる新政府軍により、二本松城総攻撃が開始されました。
 
 
新政府軍との戦力差は大きく、あっという間に二本松城は落とされました。
 
 
新政府軍の猛攻撃を受けて、諸藩が次々と降伏していきました。
 
 
9月4日の米沢藩の降伏を始め、仙台藩、福島藩などが降伏し「奥羽越列藩同盟」は実質的に崩壊してしまいました。
 
 
そうして9月24日に庄内藩が降伏し、東北戦争は終結したのです。

 
 

(4)会津戦争

 

 
新政府軍は秋から冬になるのを避けるため、東北の弱小藩と同時に会津藩にも進撃することに決めました。
 
 
温暖な薩摩・長州中心の部隊が、冬に東北地方で戦うのは不利だからです。
 
 
そして会津若松城下につながる「母成峠での戦い」に勝利しました。

 
 


 
 

1.白虎隊の悲劇

 
 
母成峠での敗戦を受けて、会津藩主・松平容保は16~17歳の少年兵からなる「白虎隊」を招集しました。
 
 
容保自らが「白虎隊」を護衛にして新政府軍を迎え討とうとしますが失敗し、籠城することに決めました。
 
 
容保に従っていた「白虎隊士」は敗走し、8月23日に飯盛山にたどり着きます。
 
 
そして、彼らは城下を焼く炎を見て若松城が落城と思い込み、16名の隊士たちが集団自決を図ったのです。
 
 
このとき、のどをついて自害を試みた飯沼貞吉が、ただ一人一命をとりとめました。
 
 
彼が生き残ったことで、「白虎隊の悲劇」が後世の私たちに伝わったのです。

 
 

2.若松城(鶴ヶ城)攻防戦

 
 
8月23日、新政府軍はとうとう若松城(鶴ヶ城)の外郭門を突破し、城下になだれ込みました。
 
 
会津藩士は急いで城へ向かい、戦えない老人や婦女子の多くは、虐殺を恐れて自害しました。
 
 
若松城での籠城は1カ月ほど続き、食料や武器が底をつきかけていました。そして、共に戦っていた庄内藩が退却したことを知ります。
 
 
そうして、9月22日、もはやこれまでと会津藩は降伏し、新政府軍との協議が成立しました。
 
 
大きな犠牲を出した会津戦争はここに終了したのです。

 
 

(5)函館戦争

 

 
新政府軍との戦闘に敗れ続けて北上していた旧幕府軍の大鳥圭介土方歳三ら新選組は仙台に向かいました。
 
 
このとき、榎本武揚が率いる艦隊も、江戸から仙台港に入港していました。
 
 
榎本、大鳥、土方は話し合って、蝦夷ヶ島(北海道)に渡り最後まで新政府軍と戦おうと決めたのです。(斎藤一は会津に残った)
 
 
一方、新政府軍は彼らを討伐するため、10月21日に蝦夷地に約3000人を乗せた7隻の艦隊を上陸させました。
 
 
22日の深夜、新政府軍の箱館府が榎本軍に攻撃を開始しました。
 
 
榎本たちはすぐに撃退して箱館にむけて進軍し、6日に五稜郭を占領しました。
 
 
11月5日には土方歳三が松前城下に陸から侵攻し、艦船からの砲撃と連携して松前城を落としました。
 
 
しかし、突然の天候不良で海が荒れ、榎本武揚は貴重な船を2隻も失ってしまったのでした。
 
 
そして、榎本軍は一気に不利になり、5月11日には最前線で戦っていた土方歳三が五稜郭の外で流れ弾に当たって戦死しました。

 
 


 
 

「戊辰戦争」終結


 
やがて新政府軍の総攻撃がはじまり、5月18日に榎本は敵の本陣に出向き降伏します。
 
 
この日、五稜郭が開城し「函館戦争」(五稜郭の戦い)は終結しました。
 
 
ここにおいて、16カ月以上にわたる「戊辰戦争」が終結したのです。

 
 
 
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