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こんにちは!
 
 
西郷隆盛は薩摩藩士でしたが、2回島流しになりました。
 
 
1回目は奄美大島
2回目は徳之島⇒沖永良部島

 
 
でも、実際には、主君から遠島を申し渡されたのは2回目だけで、1回目の奄美大島は処罰ではな、西郷隆盛を井伊直弼の牛耳っている幕府から守るためだったのです。
 
 
だから、「桜田門外の変」で井伊直弼が暗殺されると、薩摩に戻るようにと召喚命令が出たのでした。
 
 
今回は、ちょっとややこしいいこの2度に渡る島流しの理由を、くわしくお伝えします。

 
 

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島津斉彬急死と安政の大獄で行き場を失い奄美大島へ?

 

 
井伊直弼が大老に就任してから「安政の大獄」で、島津斉彬と志を同じくする者たちがどんどん粛清されてきました。
 
 
徳川斉昭・一橋慶喜・松平春嶽、近衛忠煕などが謹慎・蟄居させられ、橋本左内・梅田雲浜などは処刑されてしまいました。
 
 
西郷隆盛は島津家と近衛家の仲立ちをしていた京都の僧・月照をかくまうため、薩摩に連れていきましたが、薩摩藩はこれを拒否します。
 
 
敬愛する斉彬が亡くなったら、こんなにも藩も変わってしまうのかと絶望した西郷隆盛は、月照と共に海に身を投げました
 
 
船頭たちに救助されましたが、月照は死亡、西郷隆盛だけ奇跡的に助かったのです。でも、一時期意識不明になるほどの大きなダメージをおい、回復にずいぶん日にちがかかりました。
 
 
そうしているうちに、大久保利通などの働きかけで、薩摩藩は幕府から目をつけられていた西郷隆盛を守るため、死亡したものとして扱うことに決めたでした。
 
 
つまり、この奄美大島への1度目の島流しは、処分ではなかったということです。むしろ、その逆で、薩摩藩が幕府から西郷隆盛を守るための処置だったのです。
 
 
奄美大島での西郷の生活は、始めは月照だけ死なせてしまったことや斉彬を亡くしたことなどを想い難しい顔をしていたようですが、もともと気さくな性格なのでだんだん島民とも親しくなってきました。
 
 
特に、島民が薩摩の役人からサトウキビの厳しい取り立てをされているのを知ってからは、薩摩藩に訴えると役人にとりなして、島民を守ってあげるようになりました。
 
 
西郷隆盛には、大久保利通からの手紙やお米などの食糧が届けられていたので、役人も一目置いていたのです。
 
 
そうしているうちに、「桜田門外の変」が起こり井伊直弼が暗殺されました。
 
 
幕府は、朝廷と共に国を立て直そうという公武合体運動に方向転換しました。そして、薩摩は、島津斉彬の異母弟・久光のまだ若い息子が藩主となり、実権は久光が握るようになっていました。
 
 
島津久光の腹心となった同志・大久保利通の働きかけで、西郷隆盛は3年ぶりに薩摩に戻れたのです。

 
 

島津久光に激怒され本気で流刑に処せられた!

 

 
島津斉彬に代わり今こそ軍を率いて上京しようと考えていた島津久光に対し、西郷隆盛はかなり失礼なことを言いまくります。
 
 
西郷隆盛は「お由羅騒動」の頃から由羅とその息子の島津久光を毛嫌いしていました。
 
 
そして、上京計画について、久光は斉彬と違って田舎もん(地ゴロ)で人望がないから上京すべきでないと主君の目の前ではっきり言い放ったのです。
 
 
これは、久光が怒るのも無理ありません。島津久光は、かなりの策略家であり英才教育を受けた聡明な主君でした。
 
 
でも、斉彬の時代しか知らない西郷隆盛には、3年間のブランクがあります。おそらく、久光を見くびっていたのでしょう。
 
 
一方、、久光の腹心になっていた大久保利通は、主君の聡明さをよく理解しています。それで、大久保は熱心に西郷を説得し、西郷もそれを聞き入れ久光の上京に協力したのでした。
 
 
島津久光は上京に先駆け、西郷に「先に肥後に向かい、下関で待機せよ」と命じました。
 
 
西郷隆盛は村田新八らと共に、下関へ向かいました。下関に着くと、関西にいる薩摩の脱藩藩士たちが久光の上京を倒幕のためと勘違いし、過激な行動に出る恐れがあるという情報が入ります。
 
 
久光が上京する理由は、倒幕ではなくあくまで公武合体運動の一環でした。
 
 
でも、このまま島津久光が京都へ入ると、脱藩藩士たちが倒幕のため過激な行動に出るにちがいないと思った西郷は、それを未然に防がなければいけないと思い大坂・京都へ向かったのです。
 
 
この行動は「下関で待機」という久光の命令を破ったことになります。そうして、そのことを知った久光に激怒されたのです。
 
 
島津久光は切れ者でしたが、それゆえにプライドの高い主君でした。
 
 
「命令違反」を許すわけにはいきません。さらに、西郷は過激派の騒動をおさめに行ったのにもかかわらず、西郷が過激派を煽動しているという誤った報告が入りました。報告をしたのは、西郷の旧友・有村俊斎(後に海江田信義)と言われます。
 
 
そして、久光は西郷隆盛へ捕縛命令を出し、徳之島への遠島(島流し)を申し渡したのです。

 

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徳之島で愛加那由と再会★その数日後沖永良部島へ

 

 
1度目の島流しと言われる奄美大島行きは、幕府の追求を逃れるため薩摩が西郷隆盛を守るための処置でした。
 
 
一方、2度目の島流しは、完全に主君・島津久光の命にさからって処せられた「遠島」処分だったのです。
 
 
この徳之島は、奄美大島から船で数時間という距離でした。
 
 
この機会を逃したら2度と夫には会えないだろうと思った愛加那は、幼い長男・菊次郎と生まれたばかりの長女・菊草を連れて徳之島へやって来ました。
 
 
思いがけず妻子と再会できて、西郷はうれしかったでしょうね。
 
 
でも、愛加那が徳之島に着いたほんの数日後、西郷にさらに本土から離れた沖永良部島へ移送せよという命令が下ってしまったのです。
 
 

 

沖永良部島で激やせ?からの回復

 

 
沖永良部島に流された西郷隆盛は、始めはわずか4畳ほどの野ざらしの小さな牢に閉じ込められました。
 
 
高温多湿の亜熱帯地方のこの島での生活は苛酷なものでした。西郷は食事も満足に取れず、どんどんやせ衰えていきました。
 
 
それまではかなりがっちした太った体型だったのに、この島での生活で激やせしたのです。
 
 
でも、そうするうちに牢番をしていた島民と親しくなり、彼の座敷の中に牢を移設して雨風を防げるようにしてもらえたのでした。
 
 
西郷隆盛は4畳ほどの牢の中にいるときにフィラリアに感染したそうです。
 
 
犬を飼っている人ならお薬が必要なのでご存知と思いますが、あのフィラリア症なのですフィラリアは、犬だけでなく人にも寄生するそうですよ。
 
 
当時、九州地方には「バンクロフト糸状虫」という寄生虫によるフィラリアが猛威をふるっておりました。なので、正確には、感染場所が沖永良部島だったとは特定されていません。
 
 
でも、このころから西郷隆盛はフィラリアの後遺症に悩まされているのです。その後遺症には象皮症と呼ばれる皮膚疾患などがあり、西郷隆盛の場合は陰嚢水腫でした。
 
 
その病気についてはコチラが詳しいです⇒西郷隆盛のヤバイ病気!
 

 

1年半余りで赦免され、再び鹿児島に戻れた

 

 
西郷隆盛が沖永良部島に流されて1年半ほどたった頃、薩摩から「赦免」の命が届きました。
 
 
その1年半の間に、薩摩の外交上の大きな問題「生麦事件」が起こっていたのです。
 
 
「生麦事件」とは、上京した島津久光がそのまま江戸に行き、薩摩に帰るとき、神奈川県の生麦村で起こった事件です。
 
 
700人もの薩摩の大名行列に4人のイギリス人が騎乗のまま横切ろうとしたため、無礼千万と斬りふせられたのです。
 
 
そのときリチャードソンというイギリス人1人が死亡し、国際問題に発展してしまいました。
 
 
ちなみに、この大名行列には、もちろん大久保利通も同行していました。リチャードソンにとどめを負わせたのは有村俊斎(後の海江田信義)といわれます。この人、またいらんところで出てきました。
 
 
薩摩はこの事件で幕府や京都から不興を買い、イギリスとの交渉に人材と時間を取られることになります。
 
 
このイギリスとの交渉は、敵対していたのを逆手にとっていつの間にかコネクションを築いていたというスゴイ外交力だったのですが、とにかく人材不足で大変だったのでした。
 
 
それで、西郷隆盛を赦免して薩摩のためにもう一度働かせてはどうかという意見が出たのです。
 
 
その後、西郷隆盛は鹿児島に戻り、時代は京都を舞台とした幕末の動乱に突入していきました。

 
 

西郷隆盛の2回3島の島流し★まとめ

 

 
ややこしいので、ポイントをまとめました♪
 
★1度目
 
・奄美大島へ約3年間
・「安政の大獄」で月照と心中後の出来事
・遠島(島流し)で処分ではなかった
・幕府の追求から逃れるための薩摩藩の保護処置
・愛加那と結婚・1男1女を得る

 
 
★2度目
 
・徳之島から沖永良部島へ約1年半
・主君の命令を違反し遠島(島流し)処分
・混迷を極める幕末期に突入し赦免

 
 
こうやって追うと、本当に波乱万丈の人生ですね。

 
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