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こんにちは。
江戸時代末期、それまで200年以上平和に暮らしていた関西人の元に、江戸から長州から薩摩からややこしい人たちがたくさんやって来ました。
そうしてそれから約15年の間、京都が再び日本の政治の中心になっていったのです。
この動乱で京の都は「応仁の乱」以来の戦火に包まれました。関西地方ととらえても「大坂夏の陣」以来の戦乱です。
舞台の中心は京都御所、現在の京都御苑は多くは公園のような市民の憩いの場となっておりますが、当時はこの区画の中にぎーっしり公家邸がつまっていました。
孝明天皇は本当に大変だったでしょう。彼が長州が嫌いで嫌いで仕方がなかったのは納得できます。
その長州藩が武力を持って御所を襲った「禁門の変」についてお伝えします。
目次
「禁門の変」だけを中心に!
まずは、幕末は動向がややこしいので、できるだけに「禁門の変」の戦いに限定してお伝えします。別名「蛤御門(はまぐりごもん)の変」とも呼ばれますよ。
○○VS○○の戦いだった?
この戦いでまず一番に押さえたいのは、どことどこが対立した戦いだったのかというところです。
こういう構図になりますよ。
「長州藩」
VS
「会津藩」「薩摩藩」「幕府」(孝明天皇)
もう少しくわしくお伝えするとこうなります。
長州藩(過激派攘夷志士)
土佐など諸藩の過激攘夷志士
鷹司家・三条家など尊皇派公家
VS
江戸幕府
会津藩(京都守護職)(新選組)
薩摩藩
彦根藩
大垣藩
越前藩
筑前藩
桑名藩(京都所司代)
⇒孝明天皇は完全にこちらサイド
戦闘日時は?
勃発した日は、元治元年7月19日(1864年8月20日)です。
暑そうですね。
実際には、前夜18日に長州藩の家老3人が京へ向けて兵を動かしました。
戦況と戦闘場所
長州藩の本陣は1つではなく、こちらの3カ所でした。
・本隊・天王山(大山崎)
・天龍寺(嵯峨)
・長州藩伏見藩邸(伏見)
では、それぞれの部隊と戦闘状況を見ていきましょう。
◆伏見隊は伏見で壊滅
<伏見隊の戦闘場所>
・長州藩伏見藩邸
・伏見街道
伏見藩隊は長州藩家老の福原越後(48歳)が率いていました。
この隊は京に向かう途中、伏見街道で大垣藩に迎撃され、伏見藩邸で彦根藩と戦い壊滅しました。
ですから、この隊は京都御所に到達できなかったのです。
◆天龍寺隊は西郷隆盛隊と戦闘
<嵯峨天龍寺隊の戦闘場所>
・唐門(中立売御門から入った)
・蛤御門
嵯峨天龍寺隊は、長州の若きイケメン家老・国司信濃(21)と急進武闘派・来島又兵衛(47)が主に浪人たち300名を率いていました。
対する会津・薩摩隊は、会津藩が二番組の一瀬隊・大砲隊(林権助)ら、薩摩藩が西郷隆盛隊でした。
西郷隆盛は正確には「蛤御門(はまぐりごもん)」ではなく、最初は「乾御門(いぬいごもん)」に陣を敷き御苑内の「唐門」辺りにかけて戦闘しています。
といっても、狭い御苑内、どこの門もすぐそこという場所ですけど・・・
西郷隆盛ら薩摩藩の快挙は、その後「蛤御門」の援護に駆け付け、長州藩の遊撃隊長・来島又兵衛を自刃に追い詰めたことです。
武人らしく刀を持って斬りかかっていった来島は砲弾に狙い撃ちされ負傷を負い、蛤御門の近くで自刃しました。(自刃場所が御苑内に記されています)
イケメン家老は後に切腹しました。(長州藩は家老の3人が切腹してます)
◆天王山隊は越前藩・会津藩と戦闘
<戦闘場所>
・鷹司邸(たかつかさてい)
鷹司家は五摂家の1つで、京都御苑南側に大きな邸を構えていました。(上の画像参照↑)長州藩と志が同じだったので久坂玄瑞らを匿ったのです。
天王山隊はカリスマ指導者・真木和泉(51)と松下村塾過激派トリオ・久坂玄瑞(24)入江九一(27)寺島忠三郎(21)が率いた長州藩の本隊で結成されていました。
でも、彼らが御所に到着したときには、来島又三郎が率いた嵯峨天龍寺の遊撃隊の戦いは終わり壊滅した後でした。
そして、彼らも会津藩の大砲隊に迎撃され、仲間だった鷹司家の邸に入り裏から御所へ突入しようと試みましたが、越前藩の兵にはばまれてしまします。
入江九一は鷹司邸前で戦死、久坂玄瑞と寺島忠三郎は鷹司邸内で自刃しました。
また、「今楠公(いまけんこう)」と称された真木和泉(51)は、天王山まで戻って抗戦したのちに自刃しています。
※「九条河原」で待機していた近藤勇率いる「新選組」が追いかけていったのは、この敗走した真木和泉たちです。
※五摂家の動き
五摂家は「近衛家・鷹司家・一条家・二条家・九条家」
幕末期には、鷹司家・三条家は「長州藩」、近衛家は「薩摩藩」と懇意でした。(だから、篤姫は「近衛家の養女」になって家格に箔をつけて将軍家に嫁いだ)
藤原氏の末裔「五摂家の現在当主」については⇒★こちらをどうぞ♪
参加しなかった有名人
「こんな大きな事件にあの人は参加しなかったの?」と気になる人もいますね。
これらの人たちは、参加していません。
桂小五郎(木戸孝允)
高杉晋作
大久保利通
坂本龍馬
長州藩の桂小五郎は当時京都藩邸の留守居役で京にいましたが、「禁門の変」には反対で参加していません。「禁門の変」後は長州藩士=朝敵とみられたので、しばらく但馬に身を潜めていました。
高杉晋作はこのとき投獄後の「謹慎中」で、京にはいませんでした。
戦いの原因は?
武力闘争が起こるということは、それ相応の原因があるはずですね。
「禁門の変」の直接的なきっかけは、その2カ月程前に起った新選組による「池田屋事件」です。
そして、「池田屋事件」は前年に起こった「八月十八日の政変」からの流れで起こっています。
時系列はこうなります。
・八月十八日の政変(1863年)
↓
↓
・池田屋事件(1864年6月)
↓
・禁門の変(1864年8月)
つまり、原因をくわしくお伝えしようと思うと「八月十八日の政変」にさかのぼる必要があるのです。
禁門の変の「結果」
「禁門の変」の結果、どうなったというのも大きなポイントですね。
(1)長州藩が「朝敵」に認定
まず、この事件で本当に志の高かった尊皇派が壊滅しました。(彼らは約2年で壊滅)
一方的に敗れた彼らは200名以上の死者を出しながら、なんとか都を脱出するしかなかったのです。
そして、やっぱり長州藩が大嫌いで許せない孝明天皇は長州藩を「朝敵」と断定しました。まあ、御所に弓引いたわけですから、どんな言い訳も通用しません。
そして、将軍・一橋慶喜、京都守護職の会津藩主・松平容保(かたもり)、京都所司代の桑名藩主・松平 定敬(さだあき)に対する信頼感がどんどん高まっていきました。
薩摩藩はこの孝明天皇の心の動きに、だんだん危機感を募らせていきます。
そして、なんと犬猿の仲だった長州藩に近寄っていく・・・のです、これから。
(2)第一回長州征伐布告
「禁門の変」の翌月、長州藩は英・仏・蘭・米4か国の連合艦隊と対峙し、「下関砲撃事件」が起こって大敗を喫します。
国内、国外ともに相手にして「1つの藩」が戦っていたんですね。しかも、「朝廷+幕府」「4か国連合」ですよ。長州藩、すごいことになってました。
さすがにどうしようもなくなったた長州藩は、あの謹慎中のヤバい人・高杉晋作を呼び戻すことに決めたのでした。
そうして、高杉はかなり無茶苦茶でしたがこの危機をなんとか乗りこえたのです。すごい人です。
一方、「禁門の変」の後、怒りがおさまらない孝明天皇は、朝敵を討伐すべしと「第一回長州征伐」を布告しました。まだまだ長州藩のピンチは続きます。
(3)京都の町が大火で焼失
もう1つの大きな出来事は、戦乱時の火災で京の都が焼け、御苑内の公家邸のみならず約3万戸近い民家が焼失してしまったことでした。
出火原因ははっきり特定されていませんが、この「どんどん焼け」に見舞われた京都の町衆は、なせか長州藩に同情的だったといわれます。
木造家屋ばかりの住宅地で火を使った武器で応戦したのだから、これは当然起り得る人災でしたね。
京都はそれから4年後の「天皇の東京奠都(とうきょうてんと)」で、大打撃を受けてしまいます。
社会構造が根底からくつがえった時期なので、この時代に生きた人はたいへんだったでしょう。
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