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こんにちは。
 
 
今回は、流れが早すぎて分かりにくい「戊辰戦争」の初戦「鳥羽伏見の戦い」について簡単にご紹介します。
 
 
「戊辰戦争」は日本の革命のようなもの(庶民階級は不参加だけど)なので、「フランス革命」時のように月ごとにいろんなことが起こりました。
 
 
薩摩藩・長州藩らは、若い明治天皇を味方につけ「新政府軍」と名を変えます。
 
 
それに対抗するのは、旧体制の徳川将軍家・会津藩・桑名藩など「旧幕府軍」でした。
 
 
「新政府軍」VS「旧幕府軍」の戦いで天皇が薩長側についたので、「新政府軍」が官軍です。
 
 
「倒幕」の始まりは「戊辰戦争」の初戦である「鳥羽・伏見の戦い」でした。
 
 
今回はその「鳥羽伏見の戦い」の流れと敗因をみていきます。

 
 

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「戊辰戦争」関ケ原以来の大きな内戦

 

 
まずは「戊辰戦争」のとくちょうから。
 
 
「戊辰戦争」は、1868年(慶応四年)、戊辰の年に始まったので「戊辰戦争」と呼ばれます。
 
 
先に説明した「新政府軍」と「旧幕府軍」の間で国の主導権をめぐって行われた戦いでした。
 
 
最後の戦いが終わるまで、16カ月あまりかかっています。
 
 
でも、全国規模の内戦としては、非常に早く治まりました。そのおかげで欧米の列強の餌食にならずに済んだのです。
 
 
内戦の手助けをしてやると言ってすり寄り、いつの間にか領土を奪い植民地化するのが列強の手口ですから。
 
 
「戊辰戦争」は、「関ケ原の戦い」以来の全国を巻き込んだ内戦でした。なので、日本のいたるところが戦場となります。
 
 
兵力は諸説ありますが、新政府軍が4000~5000人、旧幕府軍が約15000人だったといわれています。
 
 
流れは「新政府軍」が「旧幕府軍」を追い詰めていく形なので、「京都」(洛外)に始まり北東へ進撃していきます。
 
 
始めの戦いは「鳥羽伏見」(京都の南)それから戦いを続けながら関東に向かって、江戸が堕ちた(無血開城)ところで北陸・東北地方へ、北海道の「函館」で終焉を迎えました。
 
 
最後の戦い「函館戦争」の終焉は1869年6月でした。

 
 

「鳥羽伏見の戦い」開戦の日時と場所

 

 
1868年(慶応4)正月(1月3日~1月6日)、京都市の南、「鳥羽」と「伏見」で、最初の武力衝突が起こりました。
 
 
主戦場は、京都市南側の上鳥羽(南区)、下鳥羽、竹田、伏見(伏見区)などです。
 
 
「鳥羽街道」で始めの武力衝突があり、その砲弾の音を聞いた「伏見街道」の旧伏見奉行所あたりでも戦闘が起こりました。
 
 
「新選組」は「伏見」の戦闘に参加しました。

 
 

【1月3日】開戦

 

 
始めの武力衝突が起こったのは洛中のすぐ南「鳥羽街道」でした。
 
 
徳川慶喜の命を受け京都に向かった「旧幕府軍」の先鋒隊が「鳥羽街道」で「薩摩軍」と鉢合わせしました。そこで強引に進軍しようとしたところ、「薩摩軍」から一斉掃射を浴びたのです。
 
 
「旧幕府軍」の隊列は「京都見廻組」「歩兵」「砲兵」の順でなんとなく並んでいましたが、「薩摩軍」は統制の取れた隊列をしっかり組んで、兵には銃を装備させ、後方には大砲もそろえていました。
 
 
戦力的には互角だったといわれますが、士気が全く違っていたため軍配は「薩摩軍」に上がりました。
 
 
このとき、鳥羽での砲声を聞き、伏見でも戦闘が始まりました。ここでも薩長が連合した新政府軍は、烏合の衆だった「旧幕府軍」を圧倒し勝利しました。

 

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【1月4日】新政府軍「錦の御旗」を掲げる

 

 
1月4日、「新政府軍」は仁和寺宮嘉彰親王を総司令官に任命します。親王が大将ですよ! 本人は相当嫌がったそうですけど。(公家が「武士の棟梁」なんてやりたくなくて当然です)
 
 
そして、「新政府軍」は岩倉具視の提案で天皇家の旗印「錦の御旗(にしきのみはた)」を揚げたのです!
 
 
この「錦旗」の威光はなかなかすさまじく(やはり日本のトップは天皇)、徳川慶喜もこれだけは避けたかったようですが、避けられませんでした。
 
 
これで「旧幕府軍」は「賊軍」に決定です。尊王思想のすごく強い「水戸藩」出身の慶喜にとって、これは痛かったでしょう。
 
 
日本人には「朝敵」=「悪(賊軍)」という刷り込みがあります。(←ほとんど宗教的)
 
 
それで、「天皇の象徴(錦の御紋)」に向けて攻撃をしなければならなくなった「旧幕府軍」の士気は、ズドーンと一気に下がってしまったのでした。
 
 
彼らは正義の戦いをしていると思っていたのに「オレたち朝敵かよ!?」となったのです。
 
 
また、これを知った朝廷と敵対したくない諸藩は、「新政府側」に寝返り始めました。(岩倉・大久保の狙い通り)
 
 
この日、旧幕府軍は大敗し、翌日にかけて敗退しながら、大将(慶喜)のいる「大坂城」まで撤退するしかなくなったのです。

 
 

【1月6日】慶喜逃亡

 

 
戦況報告を受けた慶喜は「決して退いてはならぬ、最期まで戦い抜け!」と「旧幕府軍」の兵士にゲキを飛ばしました。
 
 
ところが、その夜(6日)、側近と会津藩主・松平容保(かたもり)らを連れて、自分はこっそり夜逃げ同然に船で江戸へ退却してしまったのです。
 
 
松平容保は「兵を見捨てるなんて」とかなり嫌がっていたようですが、半ば無理やり連れていかれました。
 
 
後に徳川慶喜は江戸城が無血開城したので、ある一定の高評価を受けています。
 
 
でも、仮にも「武家の棟梁」征夷大将軍だった人が真っ先に逃げ出すって・・・
 
 
いくら司馬遼太郎がいい感じの人間像を作ったってこれはイカン!
⇒★最後の将軍ー徳川慶喜(文春文庫)司馬遼太郎
 
 
・・・と思うのでした。
 
 
大将が逃げだしたため、当然「旧幕府軍」の士気は急降下し大敗しました。
 
 
こうして「鳥羽伏見の戦い」は「新政府軍」の勝利に終わったのです。
 
 
その後、慶喜は朝敵として新政府から追われる立場になりますが、まだ戦いが続いているにもかかわらず、指揮をとらずに水戸に隠居してしまいます。
 
 
この人、頭がいいので保身はバッチリです。
 
 
最終的には、旧幕臣の勝海舟を使って西郷隆盛と交渉し「江戸無血開城」が成立しました。
 
 
でも、「戊辰戦争」はまだまだ続き、その戦火は北陸や東北など各地で続けられ、最終決戦の「箱館戦争」へと続いていきます。
 
 
「鳥羽伏見の戦い」での死者は、新政府軍110人、旧幕府軍280人にのぼったそうです。

 
 

旧幕府軍の敗因

 

 
「鳥羽伏見の戦い」で旧幕府軍が敗退した原因は諸説ありますが、要約するとこうなります。
 
 
1.京都(洛中・洛南)の土地勘がなかったこと
2.指揮官の不在で烏合の衆と化したこと

 
 
「旧幕府軍」は京都情勢に暗く「新政府軍」がどのような動きをしているかほとんど知りませんでした。
 
 
それで、洛中(京都市街)まで、すんなり軍を進められると思っていたようです。(新政府軍に会っても通してくれると思っていた)
 
 
つまり、初戦の「鳥羽街道」で衝突したとき、とっさのことで戦う体制が整っていなかったのです。
 
 
一方、待ち構えていた薩摩軍は、完全に臨戦態勢に入っておりました。
 
 
ずっと京都にいた西郷隆盛らにしてみれば、京都市街が大きな戦いに不向きなのは承知してます。
 
 
京都は千年の間、都だった町です。
 
 
昔の人は徒歩が基本なので「大通り」でも今の歩道のような狭い道幅、つまり、ごちゃごちゃしていて野戦を展開できるような広い場所がないのです。
 
 
そして、大都市なのでいったん火災に見舞われたら延焼してパニックになります。(「禁門の変」で学習済)
 
 
それで、「旧幕府軍」を洛外でおさえようと「街道」近くに軍を配置していたのでした。
 
 
もう1つの「旧幕府軍」の大きな敗因は、統率できる指導者がいなくて、各部隊が勝手に戦ってしまったことです。
 
 
実は、鳥羽や伏見も狭い道が多いです。(今でも多い)
 
 
土地勘のない「旧幕府軍」は、狭い道に大軍を進めてしまい、大混雑して統率がとれなくなったといわれています。
 
 
こういうときに立て直しを図れる指揮官がいるとよいのですが、それが不在だったため兵が烏合の衆となってしまったのでした。
 
 
このとき、伏見の旧幕府軍指揮官だった竹中重固は、早々に部隊を放置して堀川をこえ「淀」まで逃げ出しました。

 
 

おわりに


「鳥羽伏見の戦い」は、4日間で「新政府軍」勝利に終わりました。
 
 
その後、新政府軍は慶喜を追って「東夷軍」を結成し進撃します。
 
 
「東夷軍」は「東海道軍」「北陸道軍」「東山道軍」という3つの軍に別れて江戸へ向かいました。
 
 
その後の戦いは、東に移っていくのです。
 
 
「旧幕府軍」の会津藩おかかえだった「新選組」はどうなったんでしょうね。
 
 
それはこちらに!⇒★新選組の「鳥羽伏見の戦い」
 
 
合わせてどうぞ。

 
 
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