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【引用元:wikipedia)】

 
こんにちは。
 
 
幕末の英雄の1人勝海舟は、「幕末の三舟」、江戸城無血開城の功労者として知られています。
 
 
彼は、よくドラマにも取り上げられますが、父の勝小吉は海舟よりもっとはちゃめちゃなかっこよさのある強烈な個性の持ち主でした。
 
 
勝海舟も父譲りの江戸っ子気質が強く、人のために世話を焼くことが多い人生でした。
 
 
今回は、そんな勝海舟の家族関係と子孫についてお伝えします。

 
 

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父は自由に生きる無頼の江戸っ子・勝小吉

 

 
勝海舟の曾祖父・男谷銀一は、越後(新潟県)の貧しい農民の子として生まれました。彼は目が不自由だったそうですが、江戸に出て高利貸しをし大成功を治めます。
 
 
盲目で巨万の富を築いた成功者になるというのは、すごい才覚だったのでしょう。
 
 
その孫の男谷小吉は、三男だったため勝家に養子に出されました。それが勝海舟の父の勝小吉です。勝家は無役の旗本という家格でした。
 
 
小吉はけんか好きで学問が大嫌い、よく騒動を引き起こす子供でした。
 
 
5歳のときにけんかをして、相手の子供を石で殴ってけがを負わせてしまいます。そのときは、父親に下駄で頭を殴られたそうです。そんなことを、何度も繰り返ししていたようですよ。腕白すぎます。
 
 
1815年には、とうとう江戸を出奔し上方を目指し旅に出ました。途中、お金や服を奪われて無一文になり、物乞いをしながらとりあえず伊勢参りをしようと試みます。
 
 
旅の途中で病気にもなりましたが、物乞い仲間や渡世人に助けられて、なんとか江戸に戻れたそうです。すごくたくましい人です。
 
 
彼は、自分の生き様を後に『夢酔独言』という本に書いていますが、この作品は、絶対に自分のようになるなと子孫に伝えるために書いたものなのだそうです。おもしろい人ですが、この人が父親や夫だったらたいへんでしょうね。
 
 
1819年に結婚しますが、数年後、またふらりと江戸を出ます。他所に行ってまたまたいろいろ騒動を起こして、数か月後に江戸にもどると、とうとう堪忍袋の緒が切れた父親に座敷牢に入れられてしまいます。小吉21歳でした。
 
 
父親もやることがすごいです。今なら虐待ですよ。そこで3年間軟禁生活を送り、その間に麟太郎(後の勝海舟)が生まれました。
 
 
息子が生まれたなら、もう家督を息子に譲って隠居すると言い出しますが、父親に「お前も少しは働け」と言われて就活します。なんかこの人、けんかは強くてモテたかもしれませんが、結婚してもニートですよ。
 
 
日頃の行いの悪さは噂になっていたので、まっとうな職にはつけず、道場破りや用心棒をしながら、なんとか生計を立てていたようです。
 
 
そして、ついに1838年、麟太郎に家督を譲り、念願の隠居生活ができるようになったのでした。勝小吉37歳でした。

 

 

妹が佐久間象山の妻に!

 

 
佐久間象山(さくましょうざん)は、幕末の思想家で、吉田松陰や勝海舟などこの時代に活躍する多くの若者に影響を与えた人でした。
 
 
吉田松陰以上に過激で、確かにすごく賢い人なのですが、自分のことを「日本で一番優秀な人」と本気で思っていた変わった人です。
 
 
勝海舟の妹「お順」は、なーんと24歳差の歳の差夫婦だったのです。しかも、象山は正妻こそいないものの、複数の愛妾がいた41歳のおじさんなのでした。ちなみにお順は17歳です。
 
 
勝海舟の父・無頼の小吉は大反対したしたそうですが、お順が望んで結婚したのです。お順はかなり気の強い女性のようですね。ちなみに、キューピット役は、なぜか坂本龍馬でした。豪華キャストですね。
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象山は「海舟書屋」と書かれた「額」を、部屋に飾っていました。「舟は海に在り、書は家にある」という意味なのだとか。その額を、お順と結婚したころ、勝海舟に譲ったのです。
 
 
勝海舟は、それまで「麟太郎(りんたろう)」という名だったのですが、その額の文字をもらってそのときから「海舟」と名乗るようになったのでした。

 
 

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勝海舟の子孫は存命です

 

 
幕末は今から150年ほど前なので、まだまだ3~4代ぐらいしか代替わりしていません。
 
 
なので、子孫がわかっている人もかなりいるようです。
 
 
⇒こちらの記事の中の「(4)勝海舟は江戸っ子甘党男子だった」でご紹介した生き証人の子孫は、フリーライターでガラス工芸家の高山みなみ子さんという方です。
 
 
勝海舟の玄孫(やしゃご)で、彼女の母(勝海舟の孫)から、当時のことをよく聞いていたのだそうですよ。

 
 

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