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こんにちは。
 
以前、「お由羅騒動」で切腹の命を受けた赤山靱負について書きました。
 
 
今回は、その弟で新政府で活躍して、西郷隆盛と共に西南戦争で散った桂久武についてお伝えします。
 
 
大河「西郷どん」では、スピードワゴンの井戸田潤さんが演じられます。かなり意外なキャスティングで、おもしろそうですよ。

 
 

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名門・日置島津家の出身

 
出典元:https://ja.wikipedia.org/wiki/桂久武
 
桂久武(かつら ひさたけ)は、1830年、日置島津家当主・島津久風の五男として生まれます。
 
 
日置島津家は薩摩藩主の島津家の分家で、家老をつとめるとても身分の高い藩士でした。長兄の島津久徴は、後に薩摩藩の主席家老となりますよ。
 
 
ここでちょっとアレッ?と思いませんか。
 
 
島津久徴、赤山靱負、桂久武、兄弟なのにそれぞれ姓が違います。これは、次男以下が親類のところに養子に出されたからなのです。
 
 
家名の存続のために養子縁組をするのは、当時の武士階級ではよく行われることでした。
 
 
桂久武は20代半ばに、同じ島津家分家の桂家の養子になったのです。「桂」という姓ですが、長州の桂小五郎とは全く関係ありません。
 
 
若い頃は、薩摩藩の藩士の学校で働いていたそうですよ。
 
 
動乱の時代、薩摩に生まれなければ、穏やかな人生を歩めたかもしれませんね。

 
 

左遷先の奄美大島で西郷隆盛と再会

 

 
薩摩では、藩主・斉興の後継をめぐって「お由羅騒動」と呼ばれる大きなもめ事が起こりました。嫡男(斉彬)VS久光(側室の子)の争いです。
 
 
この「お由羅騒動」は、本当にたくさんの人たちの運命を狂わせていきます。このとき桂久武は、兄の赤山靭負や島津久徴と共に斉彬派につきました。
 
 
そして、斉彬派の者が島津久光とその母・お由羅の暗殺計画を立てたのですが、それが決行前に露見してしまいます。その責めを負って、兄の赤山靭負は切腹を命じられました。

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赤山靭負の切腹が西郷隆盛に与えた影響★「お由羅騒動」で散った名門藩士
 
 
その後、桂久武は斉彬の元で働きますが、斉彬が突然病死した直後の1861年に兄が失脚します。そのとき、彼も奄美大島に左遷されたのでした。そして、桂は奄美大島の警護や鉱山管理の仕事をする役目についていたのです。
 
 
でも、人生、何がきっかけになるかわかりません。
 
 
この左遷先の奄美大島は、後に西郷隆盛が幕府に追われ名を変えて住んだ所です。ここで、西郷隆盛と親しくなり、何度も手紙のやりとりをするうちに本音を言い合える仲になったのでした。
 
 
また、ここでの鉱山管理の経験が、晩年の霧島山麓開拓に生かせたのです。彼は奄美大島で外国や薩摩との窓口も担当していたので、交渉術も身につけました
 
 
思えば、この2人が奄美にいたとき、お互いが不遇の時代でした。こういうときに心が通じ合えた人とは、強い友情で結ばれるのでしょう。
 
 
その後、彼は薩摩に戻り、小松帯刀らと一緒に倒幕に向けて働くようになります。そして、その後、薩摩藩の家老にまで上りつめたのです。

 
 

「薩長同盟」締結の場に同席していた

 

 
1866年、「薩長同盟」が結ばれる際、この桂久武も同席していました。
 
 
実は、薩長同盟は島津久光の指示で行われたものでした。桂久武は久光の命で助力していたのです。
 
 
この会談の参加者は長州の桂小五郎(木戸孝允)、薩摩の西郷隆盛・小松帯刀、そして土佐の坂本龍馬でした。
 
 
その後、薩摩と長州が倒幕に向けて挙兵し、戊辰戦争が起こります。桂久武は、そのとき積極的に戦いには参加せず、物資の補給など後方支援を担当していました。
 

 

「西南戦争」で戦死

 

 
明治維新後、桂久武は鹿児島藩の大参事など、さまざまな重要ポストに就任しました。
 
 
でも、しばらくすると、明治新政府から去りたいと考え、病を理由にして薩摩に帰りました。
 
 
薩摩では鉱山管理の経験を活かして霧島山の広大な土地を買い取り、鉱山開発の指導に取り組みました。薩摩の家老だった高官が明治政府の要職に就かず、故郷に帰って自らクワを持ち開墾したのです。
 
 
彼はその事業を、これから職を失うだろう士族に仕事として与えようと考えたのでした。すでに士族が滅びゆく存在だと見越していたのです。
 
 
彼はまた、私財を投入して霧島に小学校を建設しました。
 
 
やがて、九州では、西郷隆盛を中心にした西南戦争が起こりました。
 
 
桂久武は、士族が武力で立ち上がるのに反対だったのですが、結果的にこれに参加しました。
 
 
出陣の前夜、西郷隆盛がやって来て、2人で夜が更けるまでこれまでの思い出を語り明かしたそうです。桂は、そのときも参戦はしないと伝えていました。
 
 
多くの人に見送られて薩軍が出陣する日、桂久武も西郷隆盛らを見送りに行きました。そして、その軍勢の姿を見たとき、自分も戦争に参加すると決めたのです。西郷や若い士族を見て、見捨てられない気持ちになったのかもしれません。
 
 
出陣の途中、彼らは島津久光の屋敷前を通りました。島津久光は、西南戦争には中立の立場を表明していましたが、幕府に「討伐などせず西郷の言い分も聞くべきだ」と苦言を呈していました。
 
 
西郷隆盛と桂久武は、島津久光の屋敷の門前を通るとき、一礼したと伝えられます。
 
 
桂久武は、西南戦争でも、弾薬や武器の補充など後方支援に徹しました。戊辰戦争のときと同じですね。できるだけ直接人を殺めたくなかったのかもしれません。
 
 
1877年9月24日朝、とうとう薩軍は城山で追い詰められました。そして、この地で薩軍は最後の突撃に出たのです。
 
 
西郷隆盛と共にいた桂久武は、真っ先に敵に向かって飛び出し、銃弾に倒れました。47歳でした。
 
 
彼は最期のその瞬間まで、西郷隆盛と共に生きたのです。

 
 

おわりに


桂久武は、一般的にあまり知られていません。
でも、幕末に薩摩のために尽力した逸材なのです。
 
 
彼は、交渉術に優れていたので、薩長同盟のときにも、桂小五郎(木戸孝允)のところへ話をつけにいくなど多くの働きをしています。
 
 
薩摩に戻るとき、大久保利通に引き留められたそうですよ。でも、東京で働くよりも、薩摩のために力を使いたいと思ったのでしょうね。
 
 
地元・鹿児島の発展のために、平和に尽くしたいと思っていたはずです。穏やかな気質の人だったのでしょう。薩摩で戦争を起こす(西南戦争)のは、反対でした。
 
 
でも、最後は、西郷隆盛との友情を優先した情の厚い人だったのです。

 
 
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