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こんにちは。
 
ゴッホは、日本でもたいへん人気のある画家ですね。彼はオランダ出身の後期印象派を代表する画家です。
 
 
かなり激しい性格の人で精神状態が不安定になることも多く、その感情を作品に表したため「炎の画家」などと呼ばれます。
 
 
なんだかもう、キャラが立ちすぎていて作品だけでは語れない人です。悲惨なエピソードがいっぱいなのでした。
 
 
絵画は「黄色の絵」というイメージが強いですが、あの「黄色」はおかしな精神状態が表れているわけではなく、実は緻密な計算のもとに描かれています。
 
 
絵に関しては、かなり理路整然としていた人なんですよ。構図をきちんと考えています。なかなか奥深いです。
 
 
今回は、そんな興味深いフィンセント・ファン・ゴッホの人生とその作風を簡単にご紹介します。

 
 

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挫折しまくった後、27歳で画家を志す

 

【出典元:Wikipedia:ゴッホ】

 
ゴッホは1853年、オランダ北部のズンデル村に牧師の子として生まれました。
 
 
彼は寄宿学校を中退した後、画商や伝道師などいろんな職を転々としましたが、気性の激しさからすべて挫折してます。
 
 
たいていの仕事は雇い主とトラブルを起こして解雇され、伝道師は熱心すぎてえらい人に引かれてクビになりました。
 
 
伝道師というのは、キリスト教の布教活動をする人ですが、神父や牧師などと違って教会という基地を持たなかったため、ただでさえ不信感を持たれやすい職業でした。
 
 
その上、ゴッホは断食のような行き過ぎた修行をしたため、伝道師の資格を取り上げられてしまったのです。
 
 
そうして紆余曲折の末、ようやく画家を志したのは、27歳の頃でした。それから約10年、37歳で亡くなるまで、彼は数多くの作品を残しています。
 
 
ゴッホは牧師になって貧しい人々を救いたいと思っていたこともあり、画家になった初期の作品は貧しい農民の生活を描いたものが多いです。

 
 

芸術家でもコミュ力ないと生きづらい

 

 
ゴッホはとにかく気性の激しいかんしゃく持ちで、ささいなことですぐ人と言い争いになる人でした。そばにいるとかなり大変な人だったでしょう。
 
 
そんなゴッホを長らく支え続けてくれたのが、画商をしていた弟のテオでした。
 
 
テオの存在は、ゴッホにとってものすごく大きいですよ。ゴッホは人付き合いが苦手な内向型で、他人にあまり関心のない性格だったといわれます。
 
 
一方のテオは社会性があり、画商として生計を立てていました。そして、画家ゴッホの唯一ともいえる支援者で理解者だったのです。
 
 
ゴッホが画家として認められたのは死後なので、生前はほとんどテオの仕送りで生活していました。弟に寄生していmasu.
 
 
ゴッホはその激しい性格から、好きな人ともぶつかってうまくいかなかったり、熱愛しすぎて重すぎると引かれたりと、逃げられてばかりでした。
 
 
子持ちの娼婦と恋に落ちて性病をうつされたり、10歳も年上の女性と恋に落ち周りに猛反対されて女性が自殺したりと、なかなかハードな恋愛エピソードを残しています。恋愛してるのに、まったく幸せそうじゃないです。
 
 
そして、パリの芸術家たちの間でも、次第に相手にされなくなっていきました。ヨーロッパ社会はコミュニケーション能力がなければ生きづらい社会です。芸術家も例外ではなかったのでしょう。
 
 
そんなこんなで、もともと精神的に不安定だったのにどんどん追い詰められていって、孤独に弱いゴッホはアルコール依存症にもなってしまいました。
 
 
パリを去ることに決めたゴッホは、明るい太陽の光を求めて南仏のアルルに移り住みました。
 
 
そして、今度はアルルに芸術家のコロニー(共同体)を作ることを夢見て、知り合いの画家たちにアルルにおいでと誘いました。
 
 
でも、来てくれたのはゴーギャンただ1人でした。
 
 
ゴーギャンがせっかく来てくれたのに、いざ一緒に暮らすと、個性の強すぎる2人はぶつかってばかりでした。(ゴッホの精神状態がおかしかったからともいわれる)
 
 
そうして、2カ月後にはケンカの果てに売り言葉に買い言葉で、ゴッホは自分自身の耳を切り落とすという衝撃事件を起こしてしまったのです。
 
 
これにドン引きしたゴーギャンは、もう一緒には住めないと思いました。そりゃあ、怖かったでしょう。この事件の前日、ゴーギャンはかみそりをも持ったゴッホに襲われかけてますし。
 
 
そして、ゴッホは「あの人、おかしいから病院に入れて。」と近所の人に通報され、サン・レミの精神病院に入院させられたのでした。
 
 
ゴーギャンはそのままアルルを去りましたが、その後もゴッホと手紙のやりとりは何度かしていたようです。
 
 
ゴッホは入院しても回復することなく、その後退院して、オーヴェール・シュル・オワーズで静養することになりました。
 
 
でも、そこでもまたお世話になっていた弟のテオと口論することが多くなり、最後は拳銃自殺を図って死亡しました。
 
 
自殺の原因はおそらくテオとの口論と思われますが、はっきりしておらず、テオによる他殺説もあります。ゴッホが亡くなった半年後に、テオが精神を病んで死亡したことから、そのような説もささやかれるのでした。
 
 
テオの死因は病死です。もともと喘息持ちで体が弱く、梅毒の末期症状も出ていたといわれます。体が弱っていたところに「兄ゴッホの死」という精神的ダメージを受け、日に日に衰弱していき亡くなったのでした。

 

 

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ゴッホの3つの作品

 

【出典元:Wikipediaゴッホ】

 
ゴッホは約10年間の画家生活の間に、油彩約860点、水彩約150点、素描約1030点というたくさんの作品を残しました。
 
【出典元:Wikipedia「ひまわり」】

 
もっともよく知られているのは、「ひまわり」を描いた作品でしょう。ゴッホは黄色が好きでした。
 
【出典元:Wikipedia「夜のカフェテラス」】

 
こちらは私の好きな絵です。
 
 
黄色と補色の紫との調和が美しいと思いませんか?
 
 
夜の色を明るめの紫で描き、やわらかくあたたかい黄色の灯りがすごく素敵な雰囲気です。
 
 
これは、1888年9月にアルルで描かれた「夜のカフェテラス」という作品です。
 
 
この絵を描いた1カ月後にゴーギャンがアルルに来て、その2か月後、12月に例の「耳切り事件」を起こし、アルルでの生活が終わりました。

 
【出典元:Wikipedia「星月夜」】

 
こちらはゴッホの死の前年の作品「星月夜」(ほしづきよ)です。
 
 
有名な作品で、これを描いたときのゴッホの精神状態について、いろいろ研究されています。
 
 
背景のぐるぐるが何かを暗示しているように思われるので、さまざまな考察を誘うのでしょう。

 
 

ゴッホの作風

 

 
ゴッホがパリに移ったころ、パリでは日本で人気の高い後期印象派の画家たちが活躍している時期でした。
 
 
当時、パリでは浮世絵など日本趣味(ジャポネズリー)が流行していました。ゴッホもこの浮世絵の構図に強い影響を受け、興味を持ってたくさん模写しています。
 
 
パリは芸術家の集まる町です。芸術家たちはコロニーをつくって切磋琢磨していましたが、ゴッホはそのパリでも気性の激しさが災いして、周囲と確執を生み、孤立していきました。
 
 
そして、バリを離れ移り住んだのが太陽の降り注ぐ南仏アルルでした。ゴッホはそこで、その強烈な作風を確立させていったのです。
 
 
ゴッホの絵は、孤独や不安、喜び、絶望などゴッホ自身の感情がそのままストレートに作品に反映しているといわれます。その激情が絵画から伝わることから、「炎の画家」「情熱の画家」と呼ばれるようになったのです。
 
 
でも、その一方、ゴッホの作品をしっかり見ると、かなり構図や色彩を計算して作品に取り組んでいたとも分かります。
 
 
ゴッホの絵は、生前たった1枚しか売れなかったそうです。(2枚とも)
 
 
なのに、どうして死後、これほど高価な値が付くようになったのでしょう。
 
 
後にマチスなどが高く評価したという事もありますが、直接値段が跳ね上がった原因は、バブル期に日本人が買い漁ったからでした。
 
 
どうも日本人は、ゴッホの絵が好きな人が多いらしいです。(印象派の画家は全体的に人気があります)
 
 
80年代に日本の企業に「ひまわり」が約53億円で落札され、「医師ガシェの肖像」はなんと120億円以上の高値で落札されました。
 
 
後者は、バブルの崩壊後、再び売りに出され、外国人の手に渡りました。
 
 
美術品として大切にされているというより資産運用の一環で取引されているという感じですね。
 
 
芸術の好みは人それぞれなので、ピンと来なければそれまでだと思います。
 
 
ちなみに、私はゴッホの黄色からは、激情ではなく明るくやわらかい雰囲気を強く感じます。彼がそういうものを求めていたのかな~と思うのでした。

 
 

フィンセント・ファン・ゴッホの簡単年表


・1853年3月30日(0歳)
オランダ・ブラバント地方フロート・ズンデルトで誕生。
 
・1866年(13歳)
ティルブルフの中学校(寄宿舎)入学。
 
・1868年(15歳) 
寄宿舎を中退。
 
・1869年(16歳)
美術商グーピル商会に就職。
(ハーグ、ロンドン、パリに滞在)
 
・1876年(23歳)
グービル商会を解雇。
 
・1880年(27歳)
画家になる決心をしブリュッセルで素描を学ぶ。
 
・1881年(28歳) 
エッテンの両親の元に戻り画家として活動。
 
・1882年 (29歳) 
父親と口論しハーグへ移住、その後ニュー・アムステルダムに移住。
 
・1883年(30歳)
オランダ・ヌーエンの両親の元に帰る。
 
・1885年(32歳)
父死去。
初期の作品「じゃがいもを食べる人」完成。
 
・1886年(33歳)
アントワープに移住、その後パリへ移住。
 
・1887年(34歳)
「浮世絵」の展覧会を開催。
 
・1888年 (35歳)
アルルへ移住、多くの代表作品を製作。
ゴッホが熱烈に誘ってゴーギャンとアルルで共同生活。
2カ月でゴーギャンとの共同生活が破綻。
「耳切り事件」を起こす。
 
・1889年(36歳) 
サン・ミレの療養院に入院。庭の風景などを描き絵画制作を続ける。
 
・1890年(37歳)
アンテバンダン展に出品した作品が好評。オーヴェールに移住。
7月27日拳銃自殺を図る。
29日死没。

 

おわりに


美術を知りたい方へのおすすめ図書をご紹介しますね。
    ⇓

 
西洋美術を体系的に楽しく知るのに最適で、この記事を書くときもっとも参考にしたのが、こちらの巨匠に教わる絵画の見かた/視覚デザイン研究所/視覚デザイン研究所という書籍です。
 
 
ルネサンス以降の西洋美術の画家と作品が載っています。
 
 
近代以降は、他の芸術家の評価なども吹き出しで引用されていることが多く、画家仲間からどのように思われていたのかなど多角的に知ることができます。
 
 
たとえば、ゴッホのところでは、ゴーギャン、クレー、シャガールの一言が紹介されていますよ。引用元の「文献」も、きちんと索引に書かれています。
 
 
他には、同じ出版社から出ている鑑賞のための西洋美術史入門/視覚デザイン研究所/早坂優子もおすすめです。こちらは以前、美術検定を取ったときに参考になりました。
 
 
ルネサンス以前の宗教画に興味のある人は鑑賞のためのキリスト教美術事典 /視覚デザイン研究所/早坂優子がおもしろいです。
 
 
中世以前の西洋美術はほとんどが宗教画なので、キリスト教の基礎知識があるほうが断然、美術鑑賞を楽しめます
 
 
「視覚デザイン研究所」の美術本はオールカラー本で絵画の紹介が多く、勉強くさくなく楽しめるのでお気に入りなのです。
 
 
その割に後ろの索引がしっかりしていて、押さえるべきところはきちんと押さえられています。

 

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