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こんにちは!
 
 
今回は、作曲家でピアニストのショパンの生涯についてサラッと簡潔にお伝えします。
 
 
ショパンは「ロマン派」の代表作曲家です。
 
 
よどんだ色の北海をイメージさせるアンニュイなピアノ曲が、虐げられてきたポーランドの国民性を醸し出していて、すごく素敵です。

 
 

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◆ワルシャワ生まれの天才児ショパン

 

【出典元:Wikipedia】

 
フレデリック・ショパンは、1810年にワルシャワ近郊のジェラゾヴァ・ヴォラで生まれました。そして、ショパンが、まだ赤ちゃんのころ、ショパンの一家は、ワルシャワに移り住みました。
 
 
その後もショパン一家は住まいを点々と変えたのですが、ショパンにとってもっとも思い出深かったのはワルシャワでした。
 
 
当時は、ドイツ・オーストリアで古典は音楽が全盛期を迎えていた時代でした。彼はそんな中、東欧の音楽的辺境の地で生まれ育ったのです。
 
 
ポーランドは、マズルカポロネーズなどの民族舞曲の宝庫でした。そして、ショパン一家は、音楽大好き一家でした。彼は、歌声やピアノやフルートなど、いろんな楽器の音色がいつも絶えない明るい音楽家庭で育ったのです。
 
 
彼は、4歳頃から母親にピアノを習い始めました。今でもこれぐらいの年齢でピアノを習う子は多いですね。でも、ショパンの場合、6歳のとき転機となる出会いがあったのです。
 
 
それが、チェコ出身のジヴニーというピアノ教師でした。彼は幼いショパンがピアノの天才であることに直ぐ気付いたそうです。
 
 
ショパンは7歳ぐらいから作曲もしていたようで、その頃からすでに「ポーランドのモーツァルト」と呼ばれ、ワルシャワの大手の新聞に称賛の記事がのるほど有名人だったのです。
 
 
その後、彼はワルシャワ音楽院を首席で卒業しました。エリートです。

 
 

◆愛する祖国ポーランドを脱出

 

【出典元:Wikipediaショパンの家】

 
ポーランドは軍事的には弱小国で、ロシアの支配下に入ったり、ロシア・プロシア・オーストリアによって国土を3分割支配されたりした国です。
 
 
ポーランドの国民は常に解放を切望していて、小さな反乱を起こしては失敗するという事を繰り返していたのです。
 
 
ショパンが若いときにも、ワルシャワの革命軍がロシア軍への反乱を企て、一触即発の危機になったことがありました。
 
 
ショパンは祖国ポーランドを心から愛していたのですが、幼いころから病弱だったため軍に入隊することはできませんでした。そして、彼の才能を埋もれさせたくないと思う周りの人たちから、危険なポーランドから脱出したほうがよいとすすめられたのです。
 
 
そして、1830年、20歳のとき、ショパンはオーストリアに留学すると決めました。
 
 
ショパンがウイーンにたって数か月後、ポーランドはまた解放を望んで反乱を起こし、やはりロシアに弾圧され失敗しました。
 
 
この知らせを聞いたショパンは、怒りと絶望を込めて「革命」という激しいピアノ曲を作りました。
 
     
★ショパンのエチュード「革命」です。「どこかで聞いたことがあるかも?」な有名な曲です。


 
翌年、ショパンはフランスのパリに移住し、 主にここで後半生を送ることになりました。
 
 

◆祖国ポーランドを想う音楽を作り続けた

 

 
ショパンは祖国ポーランドをとても愛していました。それが彼の作品、特にポーランドの民族音楽マズルカポロネーズによく表れています。
 
 
それは、この2つがともに祖国ポーランドの民族舞曲だからです。
 
 
マズルカは農民に伝わる素朴な民族舞曲で、ポロネーズは貴族に伝わる堂々としたリズムの舞曲です。
 
 
ポーランドなどスラブ系民族は、独特のアンニュイな感受性を持っていて、情にもろい特色があるといわれます。
 
 
単純な「悲しみ」や「失意」なのではなく、「メランコリー」「哀愁」「憧憬」など複雑なニュアンスが含まれるのです。

 

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◆男装の麗人ジョルジュ・サンドとの恋と破局

 

 
ショパンは生涯に3人ほど恋人がいたと知られますが、その最後の恋の相手は、小説家でフェミニストのジョルジュ・サンドでした。
 
 
恋というものは、まったくよくわからないもので、この2人は正反対の気質なのになぜか付き合うようになったのでした。
 
 
そして、案の定、最終的にはショパンが心身ともにボロボロになってジ・エンド、破局の2年後に亡くなりました。
 
 
ナイーブで傷つきやすいショパンと大胆で多感、移り気なジョルジュ・サンド、2人が出会ったのは、ダグー夫人という女性の夜会でした。
 
 
ダグー夫人は、超絶技巧のピアニスト・楽壇の寵児だったフランツ・リストの愛人でした。超モテモテピアニストだったリストを射止めた女性です。
 
 
サンドを見たショパンの第一印象は、「なんて感じの悪い女だ。 あれでも本当に女なのだろうか。それすらも疑いたくなる」でした。
 
 
第一印象は大事にすべきなんですよ、やっぱり。
 
 
でも、なんだかんだと気になったのか2人は付き合うようになります。でも、サンドは華麗なる男遍歴のある女性でした。
 
 
スキャンダルにわずらわされ、それから逃れるため(ショパンは決闘を申し込まれたことまであった)、2人は地中海に浮かぶ島「マジョルカ島」に逃避行します。
 
 
「マジョルカ島」は本来、地中海性気候の過ごしやすい土地です。でも、なぜか彼らが滞在した年は大雨の日が続き、ただでさえ病弱なショパンは、どんどん健康をむしばまれていったのでした。
 
 
このままではいけないと思ったサンドは、彼を連れてフランスに戻ります。
 
 
ジョルジュ・サンドのショパンへの愛情は、確かに本物だったでしょう。彼女は、病弱なショパンに献身的な看護をしていた時期もありました。
 
 
自分にないものに魅かれて恋に落ちることはありますが、価値観が近くなければ人生を共に歩むのは難しいです。
 
 
結局、ジョルジュ・サンドに新しい恋人ができて(もしくはショパンがそう思い込んだ)、2人は破局してしまいました。

 
 

◆「心臓」だけワルシャワに帰ったショパン

 

 
ショパンは、パリに移ってからは、ずっとそこに住み続けました。
 
 
子供のころから病弱だった彼は、39歳でそのパリで亡くなりました。死因は結核とされていました。色が白くひ弱そうなショパンのようすや、ショパンの父と妹が、肺結核で亡くなっていたことから、そう考えられたのです。
 
 
でも、最近の研究で、彼の死因は嚢胞製線維症ではなかったかといわれています。
 
 
でも、もう亡くなってかなりの歳月がたっているので、真実は解明できないでしょう。
 
 
ショパンはパリのペール・ラシェーズ墓地に葬られましたが、後に姉のルドヴィカが、彼の心臓をワルシャワに戻しました。
 
 
これが、ずっと故郷を想い続けていたショパンの遺志だったのです。

 
 

◆ショパンの簡単年表


 
・1810年(0歳) 
ポーランドのジェラゾヴァ・ヴォーラで誕生。
父はフランス人で母はポーランド人。
 
・1814年(4歳)
ピアノを習い始め才能を開花させる。
 
・1817年(7歳)
 初めての作曲。
 
・1818年(8歳)  
ワルシャワで公開演奏会開催。
「モーツァルトの再来」と絶賛される。
 
・1826年(16歳)   
ワルシャワ音楽院に入学。
 
・1829年
ウィーンで演奏会を開き大成功。
 
・1830年(20歳)   
ワルシャワで第1回演奏会を開催。
祖国ポーランドを去りウィーンに移住。
ワルシャワで革命が勃発...
     
・1831年(21歳) 
ウィーンを去りパリに移住。
ロッシーニ・メンデルスゾーン・リストらと交流。
 
・1832年(22歳)
パリで第1回公開演奏会を開催。
 
・1834年(24歳) 
「華麗なる大円舞曲」
「木枯らしのエチュード」
「幻想即興曲」など作曲。
 
・1836年(26歳)
ジョルジュ・サンドと出会い恋に落ちる。
 
・1838年(28歳)
ジョルジュ・サンドと「マジョルカ島」逃避行。
パリに戻って作曲活動に専心。
 
・1847年(37歳)
ジョルジュ・サンドと破局。
体調不良に悩まされる。
 
・1848年(38歳)
パリで最後の演奏会を行う、
 
・1849年(39歳)
病没。

 
 

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