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明智秀満(あけちひでみつ)は、明智光秀の重臣中の重臣、「明智五宿老」の1人に数えられる家臣です。
 
 
でも、他の明智家の人々同様、彼も出自はよくわかっていません。
 
 
その割には、「明智左馬助の湖水渡り」などいくつかのぶっとびエピソードで知られる人です。
 
 
諸説あるよくわからん人なのですが、主に伝わっている人物像に基づいてご紹介します。

 
 

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謎の多い明智秀満の出自

 

 
明智秀満(ひでみつ)の出自は、諸説あります。(←明智家はこういうのが多い)
 
 
諱(いみな)は明智秀満(ひでみつ)で、生年は1536年とも1557年ともいわれていますよ。
 
 
彼は諱の他にもいろんな呼び名があり、当初は三宅弥平次と名乗っていたのですが、その後、明智弥平次、明智光春、明智満春、明智左馬助(明智左馬之助)などいろいろ呼び名を変えています。
 
 
ただでさえ史料が少ないのに、混乱しますよね。
 
 
では、彼の出自について3つの説をご紹介します。(他の説もありますよ)

 
 

1.明智氏説

 
 
「明智軍記」によると、彼は明智氏の出自で、明智光秀の叔父・明智光安の息子だったと考えられています。
 
 
そうすると、光秀とはいとこという関係ですね。かなり濃い関係ですよ。
 
 
おそらく大河ドラマ「麒麟がくる」はこの説をとると思われます。

 
 

2.三宅氏説

 
彼が当初、「三宅弥平次」と名乗っていたことから、出自は三宅氏だという説もあります。
 
 
そこから、秀満の父は三宅出雲という人物ではないかと推測されたりしてます。

 
 

3.遠山氏説

 
 
遠山氏説は明智秀満の父の光安が美濃・明智城主の遠山景行と同一人物だったとする説です。
 
 
その説をとると、遠山景行の息子の遠山景玄が明智秀満と同一人物となります。
 
 
でも、遠山景玄は1572年の「上村合戦」で討死しているといわれるので、今ではこの説は薄いと考えられています。
 

 

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明智家の筆頭家老に

 

 
「明智軍記」によると、明智秀満は明智光秀の叔父・光安の息子と伝わります。
 
 
明智城は光秀の後見だった秀満の父の明智光安が守っていたのですが、斎藤道三の息子・斎藤義龍らの攻撃を受けて落城してしまいます。そのとき、父の光安は自刃し、秀満は光秀を守って脱出しました。
 
 
光安は、明智家嫡流の光秀を脱出させて、いつか明智家を再興してほしいという願いを息子に託したのです。
 
 
その後、秀満は光秀とともに長い牢人生活を続けました。
 
 
そうして、そのまま明智光秀の重臣として朝倉家、次に織田家に仕えます。
 
 
天下布武に邁進する織田信長に仕えていた光秀は出世頭ではありましたが、多忙を極めていました。
 
 
光秀が丹波を平定すると、やることが山積みの光秀はそれを家臣に任せるようになりました。それで、明智家にとって重要な拠点になった丹波の福知山城を秀満が任さたのです。信任の厚さがうかがえます。

 
 

「本能寺の変」を始めに相談された人?

 

 
1582年の「本能寺の変」では、秀満は先鋒となって本能寺を襲撃しました。
 
 
明智光秀が織田信長を討つと決めたとき、最初に相談したのがこの明智秀満だったといわれます。
 
 
秀満は信長を討つのは今は難しいでしょうと反対しました。その後、光秀が斎藤利三など他の重臣にも相談したところ、みんな同じく反対したため、光秀も一旦計画をあきらめかけたようです。
 
 
でも、すでに複数の人の耳に入ったため、いずれは信長の耳にも入るかもしれないと不安になって、最終的に「本能寺の変」は実行に移されました。

 
 

「明智左馬助の湖水渡り」伝説とは?

 

 
「本能寺の変」で、明智光秀は織田信長を討つことに成功しました。
 
 
ところが、その後、中国地方にいた羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、中国大返しであっという間に畿内に戻ってきてしまいます。「用意周到だな」とツッコみたくなるうさんくさい素早さでした。
 
 
そして、激突した「山崎の戦い」で、明智光秀は羽柴軍に敗れてしまいました。
 
 
明智秀満は、その「山崎の戦い」には参加していません。
 
 
じゃあどこにいたのかというと、彼は柴田勝家、滝川一益らが北陸から戻る備えとして、安土城を守備していたのです。
 
 
その後、「山崎の戦い」で明智光秀が敗走したと聞き、秀満は後詰めとして出陣しましたが、大津の打出の浜でなんと勇将・堀秀政に遭遇してしまいました。
 
 
敗退しようにも退路を断たれた彼は、何を思ったのかとっさに愛馬にまたがったまま琵琶湖に入り、騎乗のまま琵琶湖を渡り切ったのです。
 
 
愛馬になんという無茶ぶりを~!!
 
 
堀政秀もぼーぜんと見送るしかなかったとか・・・
 
 
この破天荒な行為は、後に「明智左馬助の湖水渡り」と語り草になりました。
 
 
そうして、秀満は明智軍の本拠地・坂本城に戻ることができたといわれます。

 
 

最期はいさぎよく坂本城で自刃

 

 
ついに、籠城した坂本城も、堀秀政の軍に包囲されてしまいました。
 
 
もはやこれまでと悟った秀満は、光秀所有の天下の名物・財宝をまとめて敵勢に渡し、明智家はけっして私利私欲のために織田信長を討ったのではないと訴えました。堀政秀は勇将らしく、その意を受け取ったそうです。
 
 
そうして1582年6月15日、明智秀満は明智光秀の妻子と自分の正室の命を奪い、その後、坂本城に火を放って自刃しました。

 
 

おわりに

 

 
明智秀満の生涯は、真偽不明な点がとても多くてあやふやです。
 
 
明智光秀は、実は生存していて徳川家康の側近・南光坊天海になったという有名な説があります。
 
 
ところが、本当はこの明智秀満こそが天海だったのだという説もあるんですよ。
 
 
なんだか調べれば調べるほどもやもやする謎の多い明智家なのでした。

 
 

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