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明智光秀は、かなり謎多き人物です。
信長に仕官する前の前半生がよくわかっていない上に、謀反人となったため彼に関する手紙などの史料が処分されてほとんど残っていないのです。
戦国時代の大将には複数の影武者がいたと言われるので、「山崎の戦い」で敗死したとされる彼にも生存説が根強く残っています。
有名なのが「明智光秀=南光坊天海」説です。
ミステリアスな人ですが、かなり優秀で魅力的な人物です。2020年の大河がとても楽しみですよ。
それでは明智光秀の生涯をさらりと見ていきましょう。
年表はこの記事の最後にあります。
謎に満ちた前半生
明智光秀は1825年、土岐明智氏の居城「明智城」城主・明智光綱(あけちみつつな)とお牧との間に生まれた子です。
18歳で最初の妻・千草(山岸光信の娘)と結婚しましたが、早くに死別しました。
次に26歳のとき、煕子(ひろこ・妻木範煕の娘)と結婚、仲睦まじい夫婦だったようです。
1556年、光秀が29歳のとき、斎藤義龍が父の斎藤道三を討ち、道三に仕えていた明智城も攻撃されて落城しました。
このとき、叔父の明智光安が討死し、明智光秀は本拠を失い浪人となります。
流浪の身となった生活は大変貧しく、妻の煕子(ひろこ)が自分の黒髪を売って生計の足しにしたという逸話が残っています。
この頃、彼がどうしていたのかは謎に包まれていますが、この浪人生活の間に鉄砲などの最新武器の遣い方や和歌などの教養を身に着けたようです。
その後、母方の遠縁だった若狭武田氏を頼って、越前国の朝倉義景に仕えることになりました。
鉄砲の名手で風流な教養人だった
明智光秀が朝倉義景のもとにいたとき、すでに相当な鉄砲の腕前だったようです。
「明智軍記」によると、45メートルほどの距離から鉄砲を100発撃ってすべて的の中に当てたとのこと。
本当なら凄腕のハンターですね。一体どこで訓練したんでしょう?
また、彼はたいへんな教養人だったので、将軍や公家との交渉役に向いていました。後に信長に重用されたのもこの理由が、大きかったようです。
光秀は苦労した浪人時代に、自分の黒髪を売ってまで支えてくれた妻の煕子(ひろこ)をとても大切にしたそうです。
40歳で織田信長の家臣になる
1569年には、浅井氏から離れ織田信長に仕えました。このとき織田信長は34歳、明智光秀は40歳で6歳年上の家臣です。
ここから出世していくことになるので、かなり遅咲きの晩期大成型ですね。
織田信長は光秀の頭がよく気品があり、公家文化に精通しているところ、博識なところをたいへん気に入っていたようです。
でも、光秀は信長が「大うつけ」と呼ばれていたヤンキー時代を共に過ごした家臣たちとは違う新参者でした。
それでも光秀は「比叡山延暦寺焼討」「長篠の戦い」などで次々と戦功をあげ、信長の家臣の中でいちばんの出世頭となりました。
ところが、なぜか1582年(天正十年)、本能寺で織田信長を襲う「本能寺の変」を起こしたのです。
そして、そのわずか10数日後に、信長の家臣で同僚だった羽柴秀吉(豊臣秀吉)に「山崎の戦い」で敗れ、討たれたのでした。
「本能寺の変」
「本能寺の変」は1582年に明智光秀が主君の織田信長を裏切り信長が宿泊していた京都の本能寺を襲撃した事件です。
当時、近畿地方を制圧しつつあった織田信長は、次に中国地方を攻略するよう羽柴秀吉に命じていました。そして、明智光秀に羽柴秀吉の援軍として中国地方に行くよう命じたのです。
光秀は軍を丹波(兵庫県)まで進めましたが、なぜかそこで突如引き返し、主君・織田信長がいる京都の本能寺に向かい、そこを急襲したのです。
本能寺に目標を変えたとき、光秀が兵に言ったとされるのが、あの超有名な言葉。
「敵は本能寺にあり!」
歴史ドラマの本能寺の変で必ずと言っていいほど出るセリフです。
忠臣のまさかの裏切りにびっくりの信長は槍を持って戦いましたが、多勢に無勢、どうしようもありませんでした。
そして、このとき織田信長が発したのが、またまた超有名なこのセリフ・・・
「是非に及ばず」
とうとう織田信長は自刃し、本能寺は炎に包まれました。。
ちなみに「是非に及ばず」は「やむおえぬ」という意味ですね。
そして残されたのが、光秀が信長を襲った、つまり「本能寺の変」の動機の謎、なぜ光秀はこのとき信長を襲ったのか?
Why?
Why?
Why?
歴史家の検証を待ちたいところですが、いまだ結論は出ていません。
ブラック社長・信長に強い恨みを抱いていた(怨恨説)
信長を処分して自分が社長になりたかった(下剋上)
朝廷にそそのかされた(朝廷陰謀説)
足利将軍家にそそのかされた(将軍陰謀説)
羽柴秀吉にそそのかされた(秀吉黒幕説)
徳川家康とタッグを組んでいた(家康黒幕説)
このような想像力をかきたてられるいろんな説が出ています。
どれもありそうな感じですが、複合的な動機だったとも考えられます。
明智光秀の簡単年表
・1528年(0歳)
美濃国(岐阜)で明智城城主・明智光綱の長男として誕生。
・1535年(8歳)
父・明智光綱が自刃し明智家の家督を継ぐ。
幼年だったため叔父・明智光安が後見人に。
・1556年(28歳)
「長良川の戦い」
→斎藤義龍の攻勢で明智城落城。
→叔父・明智光安が戦死.
→一城を失くし光秀は浪人になる。
~~~空白の十年~~~
浪人となり各地を転々とする。
鉄砲の技術や高い教養を身に着けたらしい。
・1565年(37歳)
越前(福井県)の大名・朝倉義景に仕官。
・1568年(40歳)
朝倉義景から織田信長に乗り換え。
・1571年(43歳)
織田信長の「比叡山延暦寺焼討」.
明智光秀は実行部隊として参戦。
・1572年(44歳)
近江国5万石をget。
坂本城築城。
・1577年(49歳)
丹波地方(京都府と兵庫県の一部)攻略。
・1579年(51歳)
丹波国29万石をget。
・1582年(54歳)
豊臣秀吉とともに中国地方攻めに参加。
「本能寺の変」
→織田信長を急襲し自刃に追い込む。
「山崎の戦い」
→羽柴秀吉らの軍と応戦し敗死。
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