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明智光秀は戦国武将の中でも謎が多く、ミステリアスな魅力があります。
最後の合戦の地、山崎はわが家の隣町、京都に向かう電車の中からよく見る風景の中にあります。
この辺りの山は竹だらけなので、土民に竹槍で殺されたというのは納得ですが、それが影武者だったら面白いのになと思う今日この頃。
光秀は浪人生活が長かったのに、なぜか鉄砲の名人で公家文化にも精通し教養豊か、すごく気になる人物です。
そして、彼は戦国武将には稀有な愛妻家として伝わる人です。
今回は、その妻・煕子(ひろこ)の生涯について簡単にお伝えします。
美人と誉れ高かったが疱瘡に
明智光秀は18歳のとき、山岸光信の娘・千草を正室に迎えました。でも、千草は早くに病死したため、26歳のとき、後妻を迎えることになったのです。
それが今回ご紹介する妻木煕子(ひろこ)でした。
煕子は1530年(享禄3年)頃、織田信長の家臣・妻木範熙の娘として生まれました。
1545年、煕子はとても美しい娘で、明智光秀のもとに嫁ぐことが決まりました。でもその後、煕子は疱瘡(天然痘)にかかってしまったのです。
命に別状はなかったのですが、美しかった顔には、痘痕(あばた)が残ってしまいました。
父・妻木範熙はこの結婚を破談にしたくなかったのですが、あばた面になった煕子では光秀に申し訳ないと思い、煕子によく似ていた妹の芳子(よしこ)を身代わりに立てたのでした。
ところが、煕子の顔にあったほくろがなかったことから、光秀は別人だと見破ります。そしてどのわけを聞いた後、自分が約束したのは煕子なのだから煕子を娶ると即答したのでした。
妻木範熙も煕子もこの光秀の心に感動し、煕子は終生、光秀のよき妻となるべく努力したのでした。
光秀と煕子は3男4女にめぐまれました。その娘の1人・珠子が細川忠興に嫁いだ細川ガラシャ、織田信長が美しいとほめた戦国時代を代表する美女の1人です。
夫のために自慢の黒髪をバッサリ!
光秀とが結婚してすぐ、斎藤道三が息子の斎藤龍興に攻め滅ぼされ、叔父が守っていた明智城も攻められ落城しました。
城を失った光秀は、美濃を捨てて浪人となり、各地を転々とする生活になりました。
流浪中にお金がなく、歌会を催す資金がなくて困っている光秀を見て、煕子は美しい自慢の緑の黒髪を売ってお金を用立て光秀を助けたそうです。
「月さびよ 明智が妻の 咄(はな)しせん」
これは、江戸時代の有名な俳諧師・松尾芭蕉の句です。
1689年(元禄2年)、伊勢の島崎又玄(ゆうげん)宅に滞在した際、芭蕉は又玄の妻の心の込もったおもてなしに感じ入りました。
そして、旅のお礼にと詠んだ句がこれなのです。
明智光秀の妻は貧しい浪人生活の中、急な来客をもてなすため自分の黒髪を切ってお金に換え、夫の面目を保ったという逸話が残っています。
芭蕉は又玄の妻に明智光秀の妻の内助の功を重ねたのでした。
夫に尽くして過労死?
1575年(天正3年)、明智光秀は織田信長から「日向守(ひゅうがのもり)」の官位を賜り、名実ともに織田の重臣の一員になりました。
でも、天下布武を掲げ、天下統一を狙う織田家は周りじゅうが敵だらけでした。
近隣の戦国大名から包囲網を作られ、比叡山延暦寺、石山本願寺という武装した寺社とも争っていた大変な状態だったのです。
信長の命で、織田家の重臣たちは各地の攻略に走り回っていました。
丹波を攻略していた光秀は、石山本願寺との戦闘にも加わるよう命じられ、忙しさのあまりとうとう過労でぶっ倒れてしまったのです。
人生50年時代のアラフィフです。長時間労働に心労が重なり一時は危篤状態になってしまったのです。
そのとき、煕子は毎日昼夜つきっきりで献身的に看護しました。その看護の甲斐あって、光秀はなんとか持ち直し、数か月後には前線に復帰できるほどに回復したのです。
ところが、不眠不休で看護を続けた煕子の看護疲れはひどく、心労と疲労で倒れてしまい、そのまま息を引き取ってしまったのでした。
享年46歳。(坂本城落城時に自害したという異説あり)
「本能寺の変」の前に亡くなったのが事実なら、煕子は幸せな人生を送れたのかもしれません。
夫・光秀は彼女の存命中は側室を置かず、3男4女の子宝に恵まれた人生でした。
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