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こんにちは。
 
 
土佐の漁師の息子として生まれたジョン万次郎こと中浜万次郎。
 
 
前回は、万次郎が生まれてからアメリカに行き、日本に帰って来るまでをお伝えしました。
 
 
まとめると、こうなります。
 
 
→漁の最中に遭難
→無人島でサバイバル生活
→アメリカの捕鯨船に救助される
→アメリカの大学卒業
→一等操縦士として捕鯨船に
→ゴールドラッシュのカリフォルニアで砂金採掘
→旅費が貯まったので日本へ帰国

 
 
波乱万丈ですね。
 
 
後半は、日本に帰ってから、いろんなところでいろんな著名人と会い、ますます経験を積んで、最終的に東大教授になって大往生なのです。
 
 
それでは、もう少しくわしくお伝えします。

 
 

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ジョン万次郎★日本に帰国する

 

 
アメリカへ行って捕鯨船で過ごした日々は、振り返るともう10年に及んでいました。
 
 
どうも、彼は帰ってきたとき、日本語をほとんど忘れていたそうです。それぐらいすっかりアメリカ文化になじんでいたんですね。
 
 
1851年、万次郎は、上海行の商船に購入したホエールボード「アドベンチャー号」を積んで乗りこみ、琉球に到着できました。
 
 
ホエールボードというのは、鯨を捕るときに鯨に近づいて銛を撃ち込むために使う小舟のことです。

 
 

薩摩藩で島津斉彬に会う

 

 
ジョン万次郎が琉球に降り立ったとき、幸いにも琉球を支配していた薩摩の藩主は、「蘭癖大名」の島津斉彬でした。
 
 
彼は、「蘭癖」と呼ばれるとおり、西洋の学問や近代技術を好み、開国と富国強兵こそ日本を守ることができる道だと考えちえた人です。
 
 
そんな斉彬にとって、ジョン万次郎は、知識の宝庫・大歓迎で迎えたい人物だったでしょう。
 
 
万次郎とその同行者たちは、鹿児島に送られ、47日間尋問を受けました。といっても、薩摩藩は、アメリカの知識を持つジ万次郎を歓待し、その知識を教えてほしいと頼んだようです。
 
 
万次郎は、自分がアメリカで見聞きしたことや学んだ知識を、出し惜しみすることなく薩摩藩に伝えました。
 
 
それから、万次郎は、長崎奉行へ送られました。
 
 
もともと遭難してのことでしたが、鎖国中に外国に行った万次郎は、国禁を犯した罪人です。長崎に送られると、「踏み絵」をさせられ、そこで9ヶ月間、投獄されてしまったのでした。
 
 
それから、ジョン万次郎は、出身地の土佐藩へ送られました。

 
 

土佐藩で士分に取り立てられる

 

 
捕らえられながらも、万次郎は、ようやく故郷に戻ることができたのです。
 
 
故郷の地、土佐で彼を待っていたのは、家族ではなく、藩主の山内容堂と大目付の吉田東洋でした。
 
 
ラッキーなことに、土佐の山内容堂も、進歩的な考え方をしていた人だったので、万次郎のアメリカの知識が知りたかったのです。
 
 
国禁を犯した漁師の子の万次郎が、土佐に戻ってすぐに「定小者(さだこもの)」という最下級の士分の武士に取り上げられたのです。それほど、外国の脅威を感じていたということでしょう。
 
 
土佐でジョン万次郎の話を聞きたがる若い藩士は、たくさんいました。後藤象二郎や、後の三菱財閥創業者・岩崎弥太郎も熱心に耳を傾けたそうですよ。
 
 
外国についてちんぴんかんぷんな日本の若者たちにとって、万次郎の知識と経験は、夢のように感じたでしょう。
 
 
そうして、ようやく彼は、土佐中ノ浜の実家に帰ることができ、母と11年ぶりに再会を果たすことができたのでした。

 
 

江戸で大出世「直参旗本」になる!

 

 
万次郎が帰国して2年後の1853年、浦賀に黒船が来航します。世間はびっくり仰天、大騒ぎになりました。
 
 
幕府も、早急に対応をする必要に迫られました。
 
 
そして、白羽の矢が立ったのが、ジョン万次郎でした。彼は老中の阿部正弘に江戸に来るように呼び出されました。阿部正弘は、島津斉彬と馬が合った有能で先進的な考え方をした人物でした。
 
 
万次郎に会った阿部は、彼の才能と知識を高く買って、直参旗本に取り立てたのです。そして、ジョン万次郎は、「中浜」という姓を与えられました。
 
 
なんといっても、万次郎は日本語を忘れていたほど英語が堪能で、アメリカ人やアメリカ文化をよく知っていて、知識も豊富でした。重用されたのは、もっともですね。
 
 
万次郎は、主に翻訳・通訳、造船指揮を担当し、また藩校の教授にも任命されました。

 

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「咸臨丸」に乗船してアメリカに

 

 
明治になった1860年、万次郎は「遣米使節団」の一員に選ばれ「咸臨丸」に乗り、恩人・知人のいるアメリカに向かいました。この咸臨丸は、勝海舟や福沢諭吉も乗っていたことで知られています。
 
 
ハワイでは恩人のデーマン牧師と再会しました。デーマン牧師は、万次郎を育てたホイットフィールドに、彼が日本で立派に仕事をしていると連絡しました。
 
 
帰国後も、彼は、捕鯨活動や海外渡航など、日本のために働き続けました。
 
 
1870年、万次郎は「普仏戦争視察団」の一員に選ばれ、ヨーロッパへ派遣されます。ニューヨークに滞在したとき、万次郎は、大恩人のホイットフィールド船長に再会することができたのでした。
 
 
ロンドンに滞在していたとき、万次郎は病に倒れました。脚に腫瘍ができたのです。そして、日本に戻って、それからは静かに暮らすようになりました。
 
 
帰国後の彼は、政治に関わることはなく、教育者として東京帝国大学で自らの知識を教えることを選んだのでした
 
 
晩年の万次郎は、家族に囲まれ穏やかに暮らしましたが、たいへん貧しい暮らしぶりだったそうです。
 
 
1884年に来日し、万次郎の元を訪ねたデーマン牧師は驚きます。日本のためにこれだけ貢献した万次郎に対する明治政府の扱いがこれかと嘆きを隠せなかったのでした。
 
 
1898年、ジョン万次郎こと、中浜万次郎は71歳で、その波乱万丈の人生に幕を下ろしたのでした。

 
 

万次郎を想う

 

ジョン万次郎の銅像は、四国最南端の足摺岬に、太平洋に向かって立っています。
 
 
歴史の検証や歴史上の人物評価は、諸説あります。ジョン万次郎が、実際にどんな人だったかは知る由もありませんが、彼は知的好奇心のものすごく強い人で、政治にはあまり関心がなかったのだと思います。
 
 
「自分の知っている知識を人に役立てるために伝える」ことが、彼の楽しい使命だったのでしょう。
 
 
ですから、開国時には幕府のために知識を惜しみなく伝えて尽力し、自分が政治家たちに教えることがなくなれば、大学で教鞭をとる道を選んだのでしょう。
 
 
富や権力に対する欲望が強ければ、政治家の道を選んでのし上がろうとしたかもしれません。
 
 
でも、彼は政府に留まるよう誘われましたが、そこには残りませんでした。
 
 
もちろん、長州と薩摩の旧藩士が幅をきかせる明治新政府の中で、土佐の漁民の子が生き残るのは難しかったかもしれません。でも、万次郎ほどの人生を歩んだ人なら、やろうと思えば挑戦できたと思うのです。
 
 
でも、彼は政治家にはなりませんでした。
そして、権力も富も求めませんでした。
 
 
最後は、ひっそりと家族に囲まれながら、穏やかな老人として暮らしました。
私は、彼のそういうところにすごく魅かれます。
 
 
ジョン万次郎の業績は、日本ではなぜか歴史の中に埋もれてしまっていますね。私もあまり習った覚えがありません。
 
 
坂本龍馬の外国への開眼は、万次郎の体験を河田小龍から聞いたからとも言われますし、岩崎弥太郎、板垣退助、中江兆民などにも、大きな影響を与えています。
 
 
でも、彼の業績は、反対にアメリカやヨーロッパで、今も非常に高く評価されているのです。アメリカの第30代大統領クーリッジは、「万次郎の帰国は、アメリカが最初に大使を日本に送った事に等しい」と語っています。
 
 
ジョン万次郎のような人がいたら、飛んで行って、彼が人生で体験した事を教えてもらいたいと思うのでした。
    ↓
ジョン万次郎(前編)★無人島漂流から渡米・帰国まではこちら

 
 

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