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こんにちは。
 
歴史の授業ではほとんど出てこないのに、幕末ドラマによくキーパーソンとして登場するジョン万次郎
 
 
外人なのかハーフなのか?
いえいえ、彼は純血日本人で、しかも武士ではなくただの田舎の「漁師の子」でした。土佐の貧しい漁師の二男で、いつもお腹をすかせている貧しい子だったのです。
 
 
彼は10歳ぐらいから働き始め、そのうち漁師の手伝いとして出稼ぎ労働に出ました。
14歳で遭難したのも、その漁の仕事の最中です。

 
 

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ドラマより数奇な人生を送ったジョン万次郎

 

 
彼のかっこいいところは、運命に翻弄されて頑張ったのではなく、数奇な縁を逃さず、がっつり自分でつかみとって、普通の人とは違う人生を送ったところだと思います。
 
 
前髪しかないといわれる「チャンスの神様」の前髪を、ためらうことなくガシッとつかんだ人ですね。
 
並外れた「決断力」と「行動力」。
 
やっぱり男性はこうでなくっちゃなのです。

 
 

土佐の漁師・遭難して無人島に流れ着く

 

 
1841年、土佐の漁師がいつものように鰹船にのって沖合に漁に出かけました。
 
 
いつもと同じだったはずなのですが、その日は強風でそのうち嵐になって船が操縦不可能になってしまいました。
 
 
5人の漁師は遭難し、大洋に流されて無人島に流れ着いたのです。
 
 
その島は、江戸(東京)から500㎞以上離れた「鳥島」という島でした。5人は、その鳥島でサバイバル生活を始めます。海鳥(アホウドリ)や魚を食べながら船が近くをとおるのを待ち続けて143日目・・・。
 
 
今まで、誰も見たことがない巨大な船がやって来ましたー!
その船に発見されて、彼ら5人は保護されたのでした。
 
 
その船「ジョン・ハウランド号」は、アメリカの捕鯨船でした。
黒船が日本にやって来たのが1853年ですから、その10年以上前の出来事ですね。
 
 
その捕鯨船の船長・ホイットフィールドは、日本人なので日本に返してあげなければと、5人をまず次の港ハワイのホノルルで降ろしました。
 
 
そして、そのまま、次の航海に出ようとしたところ、5人の漂流者の1人、一番若い少年が、このまま船に乗せて連れて行ってほしいと頼んだのです。
 
 
それが、14歳のジョン万次郎でした。
 
 
ホイットフィールドは、その少年に何かを感じたのか、連れて行ってあげることにしました。そして、その船の名前「ジョン」の愛称で呼ばれるようになったのでした。
 
 
こうして、ジョン万次郎は、ホイットフィールドに連れられて、アメリカ本土に降り立ったのでした。

 
 

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アメリカで高等教育を受けてエリートに!

 

 
ホイットフィールドは、ジョン万次郎が聡明なことに驚き、アメリカに到着してからも世話をしてくれ、教育を受けさせてくれました。
 
 
こんなことあるのかなと思いますが、同じく幕末に、新島襄がこっそり密航した船の船長に気に入られ、高等教育を受けさせてもらっています。娘が中学(同志社)のときに習ったと言ってたのをちょっと思い出したんですけど、確かそうでしたよ。
 
 
捕鯨船の船長ともなると、もちろん単なる漁師なのではなく実業家です。見どころのある面白い人材を見つけたら、投資したくなるのでしょう。
 
 
まもなく、ホイットフィールドの見る目が正しかった事が、証明されました。
 
 
万次郎は、マサチューセッツ州フェアヘイヴンのバートレット・アカデミーに通い、そこで猛勉強しました。言葉の壁をすぐに克服し、航海術や測量術、造船術など航海士として必要な知識を、一通りマスターすることに成功したのです。
 
 
すごい意欲ですね。万次郎は、もともと土佐の貧しい漁民の子です。10歳ごろから食べるために働いていました。寺子屋のような「学校」で学んだ経験はなかったでしょう。相当、努力を重ねたのは、想像にかたくないですね。
 
 
学校を卒業した後、彼はアメリカの「一等航海士」になって捕鯨船に乗りこみ、世界各地を航海しました。
 
 
まずは、アメリカ・ニューヨークから大西洋へ出港して、インド洋をめぐり、琉球や小笠原諸島近海で捕鯨を行いました。当時、日本近海は、鯨がたくさん捕れたのです。彼は約10年間、捕鯨船で航海士として働きました。

 

 

ゴールドラッシュの砂金採掘で日本への旅費を捻出

 

 
そうこうする内に、ジョン万次郎、望郷の念にかられたのか、日本に還ることを考え始めました。さすがに、目的意識を持って計画・実行することに慣れている人です。
 
 
日本へ帰るためには資金が必要、手っ取り早く大金を稼ぐにはと考えたのが、金鉱の工夫として働くことでした。当時のアメリカ・カリフォルニア州は、ちょうどゴールドラッシュが始まっていたのです。
 
 
あれだけ努力して一級航海士になったのに、旅費を稼ぐためにサッと船を降りる、この決断力、しびれます。実際、本人は、悩んだり迷ったりしたでしょうけど、動かないという選択が一番ダメなので、やっぱり彼はすごいと思うのです。
 
 
金鉱で砂金採掘の仕事をして数か月後、ジョン万次郎は、充分な旅費600ドルを稼ぎ出しました。
 
 
それから、万次郎は、まずホノルルへ向かいいました。
 
 
そして、ホノルルにいる漁師仲間と一緒に、捕鯨用の小舟(ホエールボート)「アドベンチャー号」を買って、1850年、上海行きの商船に「アドベンチャー号」も積んで、乗船したのでした。

 
 

ジョン万次郎・ついに日本へ帰還す

 

 
1851年2月2日、ジョン万次郎は、とうとう琉球・摩文仁に上陸しました。
 
 
当時、琉球を管轄していたのは薩摩藩でした。そこで、ジョン万次郎は、薩摩藩の取り調べを受け、鹿児島に送られたのでした。
 
 
このときの薩摩の藩主は、例の「蘭癖大名」島津斉彬さまでした。彼は、斉彬に一旦保護されることになるのですが、この年代をもう一度確認してください。
 
 
1851年、黒船来航の2年前です!
 
 
渡米経験10年以上のエリート一等航海士・ジョン万次郎が、重宝されないはずがない時代だったのです。
 
 
それから、彼は、長崎へ送られたり、故郷の土佐に戻ったり、江戸へ行ったり、咸臨丸に乗船してアメリカに渡ったりと、すごい経験を重ねるのでした。
 
 
何かと話題が多すぎるジョン万次郎、帰国後のジョンの活躍は・・・
→★次回に続きます♪

 
 
 

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