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こんにちは!
古代史上のスーパースター聖徳太子は、日本の政治体制の基礎を作ったと言っても過言ではないスゴイ人なのですが、なぜか天皇になっていません。
なぜ「厩戸皇子」のままだったのか・・・?
今回はなぜ聖徳太子が天皇にならなかったのか、その理由と彼の子孫についてお伝えします。
目次
聖徳太子はそもそも「皇太子」ではなかった?
古代の歴史は考えれば考えるほど調べれば調べるほど深みにはまって抜け出せなくになります。
そもそも聖徳太子が「太子(皇太子)」だったのかも不確かなもので、もっというと、本当に存在した人物なのかどうかも謎になってきています。
聖徳太子は、実は「理想化された架空の人物だった」という実存しなかった説は、年々有力になってきているのですが、ここは彼が存在したと記している「日本書紀」にそってお伝えします。
コチラの記事でも書いたように、聖徳太子というのは後世の称号「諡(おくりな)」で、実際には厩戸王、厩戸皇子と呼ばれていたらしいです。
そもそも、飛鳥時代には、まだ「天皇」という言葉も「皇太子」という言葉も存在していませんでした。
天皇は「大王(おおきみ)」という称号で呼ばれていたのです。「天皇」という言葉を始めに称したのは天武天皇といわれます。なので、それ以前の天皇は「大王」だったはずなのです。
そして、後継ぎ候補の皇子のことを「大兄(おおえ)」と呼んでいました。たとえば「中大兄皇子」などです。「大兄」は1人とは限らず複数人いることが多かったはずです。
つまり「大王」が崩御したとき、「大兄」の中からもっとも適格な者が推挙されて次の「大王」になるのが一般的だったのです。
ですから聖徳太子が次の「大王」に決定していたとは断定できないのでした。
ただ、数々の皇子の中から聖徳太子が摂政となったことから、彼が最も有能と認められていたのは間違いないでしょう。
聖徳太子が天皇にならなかったわけ
第31代用明天皇の息子でした。
第29代天皇の欽明(きんめい)天皇が亡くなった後、3人の息子・敏達(びだつ)用明(ようめい)崇峻(すしゅん)が相次いで皇位(当時は大王の位)に就き、次々に亡くなってしまいました。
最後の崇峻天皇は、蘇我馬子に宮中で暗殺されてしまったといわれます。蘇我氏がどれほど大きな力を持っていたか分かりますね。
蘇我馬子は、次は自分の意のままに操れる皇族を天皇にしようと企みました。そして白羽の矢がたったのが敏達(びだつ)の皇后(未亡人)で欽明天皇の娘でもあった推古天皇だったのです。
➾推古天皇はこちらの記事が詳しいです!
推古天皇は、中継ぎにすぎない女性の天皇のように思われました。
でも、実際の推古天皇は、美しいだけでなく聡明な女性だったのです。彼女は天皇中心の政治を取り戻したいと考えていたので、蘇我馬子に権力が集中しないように、優秀な甥・厩戸皇子を自らの摂政として指名したのです。
なぜかというと、帝位についていた3人の帝にはそれぞれ複数の皇子がいたので、次の天皇を誰にするか候補者を絞り切れなかったのだと思います。
でも、崇峻天皇はおそらく一族ともに暗殺されてしまったので、弟も息子もいなかったでしょう。
そうすると、もっとも年長だったのは、聖徳太子(厩戸皇子)ではなく第30代敏達天皇の皇子・押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)でした。その下にも敏達天皇と推古天皇の息子にあたる竹田皇子がいたのです。
厩戸皇子が天皇にならなかったのは、複数いた皇子の中の1人の候補使者にすぎなかったこととがまず挙げられます。
他には、蘇我馬子が彼ではなく推古天皇を推薦したことや、天皇になると自由がきかなくなるので、太子自ら摂政の地位にいることを望んだからともいわれます。
ただ、そんな有能な若い彼(甥)を摂政に任命したというのが、推古天皇の聡明なところでしょう。
推古天皇は75歳という当時としてはものすごいご長寿だったので、聖徳太子のほうがかなり年下ですが早くなくなりました。
そういうこともあって、厩戸皇子は皇子のまま、最後まで天皇になることはなかったのです。
聖徳太子の子孫を滅ぼしたのは本当に蘇我入鹿だった?
643年、聖徳太子の息子・山背大兄王とその一族は蘇我入鹿の軍に襲われ、自害に追い込まれました。
これは日本の正史「日本書紀」に残っている記述です。
ですから教科書的には、聖徳太子の子孫は、蘇我入鹿(蘇我馬子の孫)の手で全滅させられたということになっています。
でも、なんだか腑に落ちないと思いませんか?
聖徳太子といえば、蘇我入鹿と同一人物説まである人ですよ。(これは関裕二が言ってるだけの大ウソ)
でも、そういうトンデモ説がでるほど政治的な思想が近かったということです。
そんな入鹿が聖徳太子の息子一族を滅ぼすのかなーと、ちょっと疑問に思ってしまうのです。それに、後からその事件を知った蘇我蝦夷、が息子の入鹿を激怒したという記録も残っています。
「日本書紀」によると、山背大兄王は「けっして戦をしてはいけない」という父・聖徳太子の遺言を守って、戦えば勝つのが分かっていたのに、法隆寺の五重塔の中で一族みな自害して果てた・・・のだそうです。
ほんまかいな「日本書紀」と思いませんか?
「日本書紀」は勝者の作った歴史にすぎない
日本の正史だから「日本書紀」に書かれていることが真実とは限りません。なぜなら正史として残された出来事は、常に「勝者が作り上げた歴史」だからです。
「日本書記」は天武天皇以降の天皇と藤原一族が作った歴史です。とくに、時期的に藤原不比等(中臣鎌足の息子)がその編纂に深く関わっています。
藤原不比等の父・中臣鎌足(藤原鎌足)は中大兄皇子とともに、その2年後「乙巳(いっし)の変」で蘇我入鹿を暗殺した張本人です。
もしかしたら蘇我入鹿は山背大兄王を自害に追い込んだ犯人に仕立て上げられたのかもしれません。
誰に?といわれると、あくまで憶測ですが、もちろん「日本書紀」を編纂した人たちによってです。山背大兄王の自害には、多くの皇族が関わっていたと分かっています。
中大兄皇子(後の天智天皇)は、大きな実権を握っていた蘇我氏打倒のため、藤原氏(中臣鎌足)と手を結びました。蘇我入鹿は別段、すごい犯罪を犯したわけではなく、ただ政敵に暗殺されたのです。
その政敵であった彼ら(朝廷と藤原氏)が、同じ皇族・山背大兄王殺害を蘇我氏のせいにするというのは、じゅうぶん考えられる気がするのです。
そもそも藤原一族は、相当あくどいですからね。(←偏見です)
「大化の改新」後、聖徳太子の外交対策が否定された
もう1つ、山背大兄王を自害に追い込んだのが蘇我氏ではなかったのではないかと思う理由は、蘇我氏と藤原氏の外交政策の違いです。
蘇我氏は聖徳太子とともに、それまで「百済大好き」だった日本をの外交政策を隋(中国)との交易に大きくシフトしていきました。
「冠位十二階」は隋の政治をまねたものですし、遣隋使を派遣し積極的に中国の文化を学ぼうとしたのも聖徳太子と蘇我氏でした。
そういう政治・外交の考え方が似ていたからこそ「聖徳太子=蘇我入鹿説」が出てきたのです。
それだけ似ていたのです・・・・
そして、蘇我氏が滅びた後、つまり「大化の改新」の後、再び日本は「百済大好き」な外交に戻ります。
中大兄皇子(天智天皇)は百済の王子を助けるために兵を派遣し、「白村江の戦い」で大敗しました。
藤原氏が百済系の一族だったのではというのは、かなり以前から推測されています。
すべて遠い昔の出来事なので、実証はできません。
でも、聖徳太子の目指した「中国との交易」が「大化の改新」以降に否定され、急に百済偏愛にシフトチェンジしたのは間違いないのです。
古代の歴史は、謎が謎を呼び、真実がどこにあるのか誰にもわかりません。
でも、覚えておいてほしいのは、教科書は「勝者の歴史書」だということです。すべて正しいわけではありません。
滅ぼされた一族の「真実の言葉」は日本の正史から抹殺され、その声は後世の私たちには届かないのです。
まとめ
★聖徳太子は第31代用明天皇の皇子で推古天皇の甥だった
★聖徳太子が天皇にならなかった理由は3つの説がある
↓
・複数いる皇位継承者の1人でしかなかったから
・権力者の蘇我馬子が推古天皇を推薦したから
・聖徳太子自ら摂政の地位のままで自由に政治活動をしたかったから
★聖徳太子は推古天皇より先に亡くなったので、摂政ままで天皇になることはなかった
★聖徳太子の一族は息子の山背大兄王の代で全滅した
↓
「日本書紀」には蘇我入鹿に自害に追い込まれたとされているが謎が残る
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