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【法隆寺】
 
こんにちは!
 
 
推古天皇は、聖徳太子が摂政をしていた時代の女性の天皇です。
 
 
緊急処置で臨時的に天皇になったといわれる女帝ですが、いったい何があったのでしょう?
 
 
今回は、実は美人で頭もキレッキレだった(?)推古天皇が即位した理由と聖徳太子との関係についてお伝えします。

 
 

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なぜ推古天皇は天皇になったの?

 

【出典元:Wikipedia:推古天皇】

 
推古天皇(554年~628年)は、飛鳥時代の女性です。
 
 
ちょっとややこしいのですが、彼女は、29代欽明天皇の娘でした。そして、29代・欽明天皇には3人の皇子がいました。
 
 
その中の1人30代天皇になる敏達天皇(びだつてんのう)は推古天皇の異母兄であり夫だったのです。
 
 
この時代、近親婚はタブーではありませんでした。ですから、推古天皇は29代天皇の娘で30代天皇の妹であり妻でもあったという天皇の血筋として申し分ない存在だったのです。
 
 
そして、欽明(きんめい)天皇の3人の息子・敏達(びだつ)・用明(ようめい)・崇峻(すしゅん)は相次いで皇位(当時は大王の位)に就いたのですが、次々亡くなってしまったのです。
 
 
最後の崇峻天皇は、蘇我馬子に暗殺されたといわれます。
 
 
当時、大王(天皇)の位を継ぐのは、弟か息子というのが慣例でした。
 
 
崇峻天皇が暗殺されたとしたら、おそらく息子がいたとしても同時に殺されたでしょう。いずれにせよ、崇峻天皇には弟も息子もいなかったのです。
 
 
ということで、天皇位を誰が継ぐのかというのが大きな問題になりました。きっと皇族と蘇我氏ら権力者の間で会議が開かれたのでしょう。
 
 
敏達天皇(びだつ)と用明(ようめい)天皇には、それぞれ皇子がいました。
 
 
敏達天皇の嫡男は押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)という人でした。彼が最年長の皇子です。そして、母は推古天皇ではありませんでした。
 
 
一方、その推古天皇と敏達天皇との間には竹田皇子という皇子がいたのです。推古天皇は本心は押坂彦人大兄皇子を押しのけて自分の子・竹田皇子を天皇に推したかったでしょうね。
 
 
でも、さすがに年長者を邪険にするとひんしゅく買ってしまいます。それでこの継承問題を棚上げにするために、592年、推古天皇が女帝に立ったのでした。

 
 

美女で聡明な推古天皇・聖徳太子を摂政に任命す!

 

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推古天皇が女性でありながら天皇になったのは、混乱を収めるための救急処置のようなものでした。それからしばらくして、彼女の息子・竹田皇子が亡くなったと推測されています。
 
 
当時は蘇我氏が大きな力を持っていて、政治に口出しするようになっていました。推古天皇が立ったのも蘇我馬子の推薦があったからです。
 
 
蘇我馬子にしてみれば、うまいこと崇峻天皇を暗殺して、また自分の言いなりになる女性を天皇にすえることができたとウハウハだったでしょう。
 
 
でも、馬子の目論見は見事に外れました。
 
 
推古天皇は、かなりの美女だったそうですが、聡明な女性でもあって、蘇我氏に権力を集中させないようにしたのです。
 
 
彼女は、天皇中心の政治を取り戻したいと強く願っていました。そこで、有能で信頼できる用明天皇の息子・自分の甥の聖徳太子を「摂政」にして政治を任せることにしたのです。
 
 
この決断が素晴らしいかったのです!
 
 
「摂政」というのは天皇が幼い場合や女性の天皇の場合に天皇の政治を補佐する役職です。
 
 
つまり、聖徳太子はこの推古天皇の下だったからこそ摂政として大活躍できたといえます。
 
 
そして、仏教の教えを国民が学ぶことで平和な国にできるという聖徳太子の考えに共感した推古天皇は、仏教を保護する命令を出しました。
 
 
こうして、四天王寺(大阪府)、飛鳥寺(奈良県)、法隆寺(奈良県)など、現存する寺院が次々と建てられていったのです。
 
 
推古天皇は、その後も聖徳太子を信用して、彼を自由に働かせました。
 
 
そうして聖徳太子は、推古天皇のもとで「仏教の保護」「遣隋使の派遣」「十七条憲法制定」「冠位十二階の制定」などを行ったのです。
 
 
「聖徳太子」や「遣隋使」については、こちらの記事で分かりやすくお伝えしています。
   ↓
聖徳太子は実在しなかった?予言など5つの伝説と十七条憲法・遣隋使を紹介

 
 

聖徳太子はなぜ天皇にならなかったの?

 

 
聖徳太子が摂政の地位にとどまり天皇にならなかったのは、摂政のほうが天皇よりずっと自由に動け、自分の成し遂げたい事や学問に集中できたからといわれます。
 
 
つまり、自ら天皇になることを望まなかったという説です。
 
 
その他には、蘇我馬子が有能な聖徳太子が天皇になることを阻止したという説もあります。
 
 
今となってはどちらが正しいのかわかりませんし、両方の理由だったのかもしれません。
 
 
ただ、分かっているのは、推古天皇がかなり長生きしたため、聖徳太子のほうが2年ほど先に亡くなったということです。
 
 
彼女は75歳で亡くなったといわれます。
 
 
それまで短命に終わっていた天皇に比べ、統治期間がかなり長かったということは、安定した政権だったということでもあります。
 
 
聡明だった推古天皇の時代に摂政になれたからこそ、聖徳太子は活躍できたのかもしれません。

 
 

おわりに

 

 
今回は推古天皇と聖徳太子の関係について、なぜ女帝が立ったのかなどをお伝えしました。
 
 
★推古天皇は29代欽明天皇の娘だった
 
★推古天皇は30代敏達天皇の異母妹で妻だった
 
★推古天皇は美しく聡明な女性だった
 
★推古天皇が即位したとき聖徳太子が摂政に就任した
 
★聖徳太子の活躍は推古天皇あってこそだった
 
★聖徳太子より長生きした(75歳で崩御)

 
 
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