この記事を読むのに必要な時間は約 12 分です。
古代ローマは、始めは小さな都市国家でしたが、戦争によってどんどん領土を広げていきました。
民主共和制が完成するころにはイタリア半島を統一し、その後は地中海世界の征服に乗り出します。
そのとき「地中海の女王」と称された海洋国家カルタゴが、ローマのライバルとして大きな脅威になったんです。
カルタゴとローマの3度にわたる戦いを「ポエニ戦争」といいます。
この戦争は、英雄ハンニバルを登場させました。
ハンニバルはカルタゴの将で最終的に敗北するのですが、天才用兵家としてすごく人気があります。小説やマンガの主人公になってますよ。
それでは全3回の「ポエニ戦争」を順を追って簡単に伝えします。
目次
「ポエニ戦争」前夜のそれぞれの事情
ポエニ戦争、なんだかかわいい感じの名前じゃないですか?
「ポエニって地名かな?」とか思われたあなた、ポエニというのは、ラテン語で「フェニキア人」を意味する「ポエニキ」から派生した語です。
じゃあ、なぜフェニキア人なのかというと、カルタゴを建設した民がフェニキア人だったのです。
ポエニ戦争は、ラテン人側(ローマ)から見たフェニキア人との戦争ということなんです。
この戦争は、ローマVSカルタゴの戦いです。
そして、この戦いは3回目が終わるまで約100年もかかっています。ということは、世代交代していて戦争の司令官も国の勢力も変わっていってます。
まず、第1回ポエニ戦争当時の情勢を確認しましょう。
ポエニ戦争の舞台は地中海です。当時の地中海世界は、イタリア半島統一を完成し地中海の海上支配権を狙い始めていたローマと「地中海の女王」と称され繁栄をきわめていた「カルタゴ」、そして、どちらにも対抗していた小さな「ギリシャ植民市」たちという3つの勢力がありました。
よーするに、この戦いは地中海の制海権をめぐる戦いだったんです。
きっかけは、地中海に浮かぶ島・シチリア島でカルタゴと対立していた植民市シラクサが、ローマへ援軍を要請したことでした。
◆第1回ポエニ戦争でローマがシチリア島をゲット!
第1回ポエニ戦争は、前264年~前241年の23年間行われました。結構長引きましたね。ま、ずっとドンパチやってたわけじゃありませんけど。
きっかけはギリシャ植民市・シラクサが豊かな海洋都市カルタゴと対立していて、ローマに助けてと言ってきたことです。ローマにとっては侵略するよい口実ができたんです。
そうして、主にシチリア島が戦場となってローマとカルタゴが争った結果、ローマが勝ってシチリアを占領しました。
シチリアはローマ最初の「属州」です。さらに調子に乗ったローマは、どさくさまぎれにサルデーニャとコルシカも奪ってしまいました。
仕方がないので、それ以降カルタゴはローマに対抗してイベリア半島の方に進出していきました。
◆第2回ポエニ戦争はハンニバルVSスキピオの英雄対決
前218年、第1回ポエニ戦争で地中海の制海権をローマに奪われたカルタゴは、イタリア半島のローマ本土に背後から侵入するという大技から始まりました。
カルタゴの英雄・ハンニバルがアルプスを大きく迂回して守備の薄いイタリアの北側から侵攻したのです。
冬に差しかかる険しいアルプスを、たまに出没するケルト族と戦いながら4万の軍を率いたハンニバル。イタリアにつく頃には兵は半分近くに減り、連れていた30頭の戦闘用の象はわずか3頭になっていました。
それでもこの奇襲作戦は成功し、前216年の「カンネーの戦い」ではカルタゴが圧勝します。
でも、その後、ローマは有能な将軍・スキピオが指揮につき、前202年、カルタゴ近郊の「ザマの戦い」でハンニバル軍を破り逆襲に成功したのです。
この戦いはローマの勝利で終わりましたが、ローマ本土が戦場になりローマ側の戦死者が数10万人にものぼる損失をこうむりました。
それでもローマは、この戦いと同時期に「マケドニア戦争」でギリシアを制圧しているんですよ。これで東地中海の制海権も得ました。
ローマとカルタゴ、ここにきて国力の差がかなり開いています。
◆第3回ポエニ戦争のカルタゴの悲惨すぎる最期
第3回ポエニ戦争は、前149年に始まりました。
この戦争はローマ軍がカルタゴをせん滅させる目的で仕掛けたものです。そうして、目的は完全に果たされました。
紀元前151年、カルタゴは2度の戦争で領土の大半を失ったのに、ローマへの高額の戦争賠償金を繰り上げ完済しました。これはよいことと思われがちですが、ローマにとってはこのような脅威的なカルタゴの復興力、経済力に大きな不安を抱きました。もうかれこれ1世紀ほどライバルしてますしね。
そうして、次第に、ローマの政治家の中で「カルタゴを壊滅すべし」という声が大きくなっていったのです。
それからローマのカルタゴへの嫌がらせが始まりました。
強者が弱者に無理難題を押し付けるのは、世界史のいろんな舞台で繰り広げられてきたことですね。
すでに弱体化していたカルタゴはローマに低姿勢で折衝を重ねたのですが、「カルタゴの貴族の幼児300人をローマに人質に差し出せ」「 全ての武器と防具とを引渡せ」「海岸の都を廃しろ」「10マイル以上の内陸に遷都せよ」と、次々に厳しい要求を突き付けられたのです。
すごい意地悪です。「内陸に遷都」というのは、海洋都市カルタゴにとって、絶対に首をタテには振れない壊滅的な事項ですよ。
こうなるとカルタゴは、もう戦うしか道はなくなったわけです。
で、これこそがローマの狙いだったんです。
ローマは何も意地悪だから嫌がらせを重ねていたわけではなく、カルタゴを武装解除して丸裸にし、その上で、戦争に持ち込もうと狙っていたのです。
目的はただ1つ、カルタゴのせん滅、カルタゴをこの世界から消し去ることでした。
ローマの要求をついに拒否したカルタゴに、ローマ軍は攻撃を始めました。これが「第3回ポエニ戦争」の始まりです。
ローマは北アフリカに上陸して、カルタゴを完全に包囲してしまいました。籠城戦のような戦いになっても、カルタゴはそれから4年間持ちこたえたのです。
でも、ついに限界が訪れました。
4年目の春、ローマの完全包囲下におかれ食料などの物資補給がまったくなくなったカルタゴは、ついに追い詰められ、スキピオ(第2回ポエニ戦争のスキピオの孫)による最後の攻撃で町は陥落しました。
こうして、カルタゴの陥落という結末でポエニ戦争は終結したのです。
歴史まで徹底的に抹殺されたカルタゴ
「第3回ポエニ戦争」は、ローマによるカルタゴ包囲戦でした。
4年にわたる戦いの後半には、都市に閉じ込められた多くのカルタゴ人が餓死しました。さらに戦いの最後の6日間の攻撃は、女子供を含むすべてのカルタゴ人が攻撃の対象となり、数10万人もの戦死者が出ました。
50万人いたといわれるカルタゴの民は戦後5万人ほどに激減し、生き残った全てのカルタゴ人が奴隷として売り飛ばされました。
その後、街は10日間から17日間ほどで全て焼き払われました。街の港や家屋は一軒一軒ことごとく破壊され、その上、その土地に2度と作物が育たぬように「塩」が撒かれた(塩土化)とも伝わります。カルタゴは焦土と化しました。
徹底的ですね。ここまで完全に地上から「カルタゴ」を抹殺しようとしたのは、恨みからというより、脅威、恐れを感じていたからでしょう。
現存するカルタゴの遺跡はこの「海洋都市カルタゴ」のものではなく、後の帝政ローマ期にカエサルが再建させた「植民都市カルタゴ」以降のものです。
戦いの指揮官だったスキピオは、このカルタゴの地獄絵図を見て、勝利に酔いしれるどころか悲哀を感じたと後に手記に記しています。
「今まさに栄華を誇るローマも、いつかは同じ運命を辿るであろう」と・・・
戦後、ローマの勢力はますます強まりました。でも、共和制ローマの体制が、肥大化していく領土の統治に対応できなくなっていきます。
そうして、ローマは「内乱の1世紀」と呼ばれる乱世に突入したのです。
【関連記事】
↓