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こんにちは!
 
ルネサンスの巨匠といえば、誰をおいてもまずこの人!
 
 
レオナルド・ダ・ヴィンチです。
 
 
「万能の天才」というとんでもない肩書をサラリと得ている凄い人なのですが、なかなかキャラの濃い逸話が残っていてとても興味深い人です。
 
 
まずは、パパっと概略を~♪

 
 

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◆世紀の天才・ヴィンチ村のレオナルド

 

【レオナルドダヴィンチの自画像】

 
レオナルド・ダ・ヴィンチ、「ヴィンチ村出身のレオナルド」は、出身地を勝手に「姓」にしていたあたりからして立派な庶民です。
 
 
父親がいない私生児だったから村の名前を姓にしたという説もありますが、庶民なので適当なのでしょう。
 
 
彼は、一般的には15世紀後半から16世紀前半に活躍した「イタリアの芸術家」として知られています。「モナリザ」「最後の晩餐」が代表作です。
 
 
でも、芸術は彼の功績の極々一部なんですよ。
 
 
その他に、数学、工学、植物学、解剖学、天文学、地質学、物理学、力学など多くの分野で功績を残した人なのです。
 
 
いろんな分野でいろんなびっくり発案をするものだから、「万能の天才」と呼ばれるようになったのです。
 
 
いわゆる「偉人」の中でも最高級の偉人なのでした。
そんな彼が、発明した物の一部をご紹介します。

 
 

1.理工系の天才発案家

 
 
レオナルド・ダ・ヴィンチは、多くの機械や乗り物の発案者です。
 
 
実際に彼が生きている間に完成されたものが少ないので、芸術のような高い評価は受けていませんが、初めてアイデアを出したというところが凡人や秀才と異なるところなのです。
 
 
彼はヘリコプターを機械として発案者した人であり、戦車や潜水したまま戦える戦闘スーツの発案をしています。
 
 
また、自動糸巻器針金の強度検査器なども発案して図案に残していました。これらは、後に実用化されて、製造業の発展を支えることになったのです。
 
 
たくさん発案している割に完成していないというのは、やっぱり時代が彼に追いついていなかったのでしょう。

 
 

2.絵がうますぎて師匠が辞めてしまった史上最高の画家の1人

 

【キリストの洗礼(レオナルド・ダ・ヴィンチ)】

 
レオナルド・ダ・ヴィンチは、14歳のときに当時の芸術の都フィレンツェに行きました。
 
 
そして、そこで工房を開いていた画家のアンドレア・デル・ヴェロッキオの弟子になって才能を磨きました。
 
 
ヴェロッキオは本人の芸術の才能も一流でしたが、なにより「稀代の良師」と絶賛されるほど、弟子の才能を伸ばす能力のある人だったのです。
 
 
彼のもとでレオナルド・ダ・ヴィンチはどんどん才能を開花させ、20歳になるころには彼の才能は認められていました。
 
 
レオナルド・ダ・ヴィンチの絵を間近で見続けたヴェロッキオは、そのあまりの見事さに自分の画家としての自信を失くしてしまい、絵を描くことを止めてしまったという有名な話が残っています。
 
 
きっと、本当にしっかり弟子の才能を見つけて伸ばしてくれるよい親方だったのでしょう。

 
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◆レオナルド・ダ・ヴィンチの逸話

 
 
ここからは、レオナルド・ダ・ヴィンチについて、よく語られている逸話をご紹介します。
 
 

1.文系科目はまったくダメだった

 

 
レオナルド・ダ・ヴィンチは頭の良い人として知られていますが、実は語学がからきしダメでした。
 
 
外国語の習得が、なかなかできなかったようです。他にも単調な暗記物が苦手らしく、覚える勉強全体が苦手だったようです。
 
 
また、暗算が苦手だったという説もあります。
 
 
あんなに機械工学系の物を発案しているのに、計算できないってどういうことやんって思いますけど。

 
 

2.ユーモアのある偏屈じじいだった

 

 
レオナルド・ダ・ヴィンチは、ユーモアを理解する楽しい人だったそうですが、同時に自分がこうと思ったら絶対に折れない頑固な一面を持っていました。
 
 
これだけの芸術家なんだから、当然でしょうね。
 
 
注文を受けた仕事(作品)でも、やる気がなくなったらすぐ断ったりしているので、依頼主が実は完成させる気がないのではないかと心配したといわれます。
 
 
実際に、ものすごくこだわりの強い人だったので、気に入らないと書き直したり創作を止めたりすることもたびたびあったそうです。

 
 

3.人体解剖が大好きだった

 
レオナルド・ダ・ヴィンチは、人体に対して異常なほどの執着心を持っていました。彼は人を描くならその内部も全部丸ごと知っていなければならないと考え、人体(死体)を解剖して入念なスケッチを行なったのです。
 
 
これは、熱心な画家、彫刻家、医師などではよく見られることですね。非常に強い探求心の現れです。
 
 
同時代のミケランジェロも同じようなことをしています。
 
 
レオナルド・ダ・ヴィンチは、内臓や骨と筋肉の仕組みだけでなく、眼球を解剖して視力の仕組みを理解しようとしたり、妊婦の死体を解剖して胎児の成長過程を知ろうとしたりしました。
 
 
胎児の成長過程はかなり気になるところでしょう。
かつて、イスラムの王は、妊娠3カ月から臨月までの妊婦を数人選んで、自分の目の前で生きたまま妊婦の腹を裂いて胎児の様子を調べさせたそうですよ。
  ↑
これも同じ、「純粋な探求心」から生まれた行為です。
 
 
彼はまた、処刑場や死体置き場に行って、死体を熱心にスケッチしていたそうです。これも画家なら結構やってます。

 
 

4.同性愛者だった?

 

 
レオナルド・ダ・ヴィンチには、同性愛者説があります。ま、芸術家なのですから、それも有りでしょう。
 
 
その根拠は、あの有名なオーストリアの精神医学者・フロイトが彼の残した手帳などを調べて同性愛者なのではないかと分析したからだそうです。
 
 
それに、結婚するのが当然だった当時のイタリアで、生涯独身を貫いていたとのが珍しかったからだそうです。
 
 
でも、それは単に興味がなかった、めんどくさかった、女と共同生活をするのがだるかったなどじゃなかったのかなと思います。
 
 
もし、そうだったとしたら、現代の日本の若者に近い感覚かもしれませんね。
 
 
それか、よく気の付く弟子の美少年がそばにいたので、こうるさい女よりそっちのほうがいいわと思っていたからでしょう。
 

 

5.チェーザレ・ボルジアの下で働いたことがある

 
 
一部のチェーザレファン以外の人には、大したことのない情報なのですが、同時代人だったと分かりますね。チェーザレがいろいろいらんことを企んでいたとき、レオナルドも生きていたのねという感じです。
 
 
チェーザレ・ボルジアは、カンタレラという名の「ボルジアの毒」を使って権謀術数を駆使してのし上がろうとした教皇アレクサンデル6世の息子です。
 
 
小説家の塩野七生さんのおかげでチェーザレ・ボルジアといえばイタリアの織田信長みたいなイメージがついていますが、実際はもっとずっと小者だったと思います。(塩野さんとは男性の好みが違うのでなんといえませんけど)
 
 
そのチェーザレが没落する前年に、レオナルド・ダ・ヴィンチが8か月ほど建築技術監督兼軍事顧問としてチェーザレの軍と行動を共にしていたそうですよ。
 
 
こちらは、レオナルドがチェーザレ・ボルジアの命令で制作した、ものすごく精密なイーモラの上からの地図です。
チェーザレが、完成度の高さにびっくりしたのだとか。⇓

    

 
 
いろんな仕事をしていますね。
 
 
レオナルド・ダ・ヴィンチのように才能はあるけど金と権力がない人は、パトロンを求めてさまよう定めにありました。
 
 
彼は当時、ミラノ公ルドヴィーゴ・スフォルツァの庇護下にあったのですが、ミラノ公が失脚した後、一時的にチェーザレの下で働いていたのです。
 
 
同時代人つながりでは、他に彼よりずっと年下ですがミケランジェロがいますよ。
 
 
それはまた、別の機会にお伝えしますね♪

 
 
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