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こんにちは!
 
もう20年ほど前になりますが、ヴァチカンにあるあの銅像の孤高の存在感に衝撃を受けたのを覚えています。(当時は若かったので)
 
 
でも、今もあの「ピエタ」以上の慈愛と尊厳を備えた美しい聖母を見たことがありません。「ピエタ」に始まり「ピエタ」に終わったミケランジェロは、「神のごとき」と称された芸術家でした。
 
 
けっして作品作りに妥協をせず、命がけでローマ教皇にも逆らったのは、「神の啓示」により作品を作っているというゆるぎない自負心からでしょう。
 
 
今回は、ミケランジェロのよく知られている作品から彼の前半生をお伝えします。

 
 

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◆ルネサンス芸術の巨匠・ミケランジェロ

 

 
ミケランジェロは、88歳という長寿でした。そして、その長い芸術活動の中で、どんどんそのスタイルを変えていった芸術家でした。
 
 
彼のもっとも有名な彫刻「ピエタ」「ダビデ像」は、わずか20代のときに作られたものなのですよ。
 
 
彫刻は、大きな1つの石を掘って作り上げるものです。神に愛されたと言われるのも納得な傑作なのでした。

 
 

1.生まれたときから?自信家で口が悪かった!

 
 
ミケランジェロは、フィレンツェ郊外の貴族の家に生まれました。でも、次男で母が病弱だったため、幼い頃に「石工の家」に預けられたのです。
 
 
彼はそこで「母乳と一緒にノミと槌を飲み込んで育った」そうなのです。
 
 
彼は小さいころから、ノミを持てる環境にあったのです。そして、彫刻に夢中になりました。
 
 
でも、ミケランジェロが成長すると、「芸術など貴族がやることではない」と父に大反対されました。当時の芸術家の地位は低く、職人のような扱いだったのです。
 
 
彼は彫刻をあきらめることはできず、1488年に画家の元へ弟子入りします。
 
 
その頃から、自信家で傲慢、口が悪かったミケランジェロは、友人の作品をぼろくそにけなして、殴られて鼻が曲がってしまったというエピソードが残っています。それ以降、彼の鼻は生涯、曲がったままだったそうですよ。
 
 
そのうち製作した作品が認めらるようになり、「花の都」フィレンツェの支配者メディチ家に呼ばれることになりました。
 
 
当時のフィレンツェの支配者は、豪華王と称されたロレンツィオ・メディチでした。

 
 

2.世界史上最高傑作と呼ばれる「ピエタ」

 

 
20歳ごろ、ミケランジェロは自分の作品を土の中に埋めて古代彫刻に見せかけて高く売ろうとしたことがありました。
 
 
いわゆる詐欺ですね。でも、即効バレました。
 
 
そして逮捕され連れていかれたのが枢機卿の所でした。でも、当時のリアーリオ枢機卿は、ミケランジェロを罰するどころか高く評価したのです。
 
 
1498年、ミケランジェロが23歳のとき、初めて大きな仕事の依頼が入りました。
 
 
サンピエトロ大聖堂に飾る「ピエタ」を作ってくれというものでした。「ピエタ」というのは、イエスの亡骸に寄り添って嘆くマリアの彫像のことです。
 
 
ミケランジェロは、何日も服を着替えず悪臭を漂わせながら作品作りに没頭したそうですよ。ある日、靴をぬごうとしたら一緒に皮膚がはがれたこともあったそうです。痛いです。(._.)
 
 
そうして、半年がかりで完成したのが、後に「サンピエトロのピエタ」と呼ばれる「ピエタ」の最高傑作でした。
 
 
うまくお伝えする言葉が見つかりませんが、作品の中に魂が刻み込まれているような、そんな存在感のある作品です。
 
 
この上の画像はWikipediaからの借用ですが、全然きれいに撮れていません。実物はもっと白い石で美しいのです。

 
 

3.神の啓示で完成した「ダビデ像」

 

 
1501年、ミケランジェロが26歳のとき、フィレンツェから依頼がありました。巨大な1つの大石から銅像を掘る仕事です。
 
 
すごく大変な仕事でしたが、ミケランジェロはこう言いました。
 
 
「掘るべきものが石の中に見える
ただ私は石を掘って、中に見えるものを掘り出してやればいいのだ」

 
 
そうして2年半没頭して作り上げたのが、傑作「ダヴィデ像」です。
 
 
現在、フィレンツェのアカデミア美術館におかれている「ダビデ像」は、4メートルの高さ、5トンもの重さのある銅像です。
 
 
その像の手の甲には血管が浮き出ていて、筋肉も生身の人間そのものです。解剖学を学び人体の内部の構造も知り尽くしていたからこそ作り得た作品でした。
 
 
ダビデ像は、青年らしく引き締まった体をしていてマッチョすぎないところが素敵です。
でも、ようく見ると、全体のバランスに対し頭部が大きすぎる感じがするんですよ。
 
 
実は、これは下から見上げたときにバランスよく見えるようにと考えて、わざと大きく作ったのだそうです。
 
 
これが完成したとき、ミケランジェロは28歳でした。
 
 
この像は大好評で、その後、フィレンツェの人々の「自由と解放のシンボル」になりました。

 

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4.レオナルド・ダ・ビンチと対決?

 

 
「万能の天才」と呼ばれるレオナルド・ダ・ビンチは、ミケランジェロより23歳年上の同時代人です。
 
 
彼らは芸術に対する考え方が異なっていました。
 
 
レオナルド・ダ・ビンチは、彫刻より絵画のほうが芸術作品として優れていると主張し、ミケランジェロは彫刻こそが至上の芸術作品だと考えたのです。
 
 
ミケランジェロが29歳のとき、この2人の「夢の対決」が見られることになりました。
 
 
1503年、「万能の天才」レオナルド・ダ・ビンチは、フィレンツェ政庁から「政庁舍・大評議会室の壁画」の依頼を受けます。彼は「アンギアーリの戦い」を壁に描く予定でした。
 
 
ちょうどチェーザレ・ボルジアと別れて、久しぶりに芸術作品にとりかかることができるぞというときでした。
 
 
同時期に、反対側の壁に仕事を依頼された人物がいました。それがミケランジェロです。
 
 
ミケランジェロは「カッシーナの戦い」を壁面に描く予定でした。
 
 
でものこの「夢の対決」は、叶えられませんでした。
 
 
まず、レオナルド・ダ・ビンチが、乾く前に絵の具が作品に流れてしまって断念してしまったのです。
 
 
一方のミケランジェロは、描いている途中にローマ法王から彫刻の依頼を受けました。
 
 
「え? 彫刻?」
 
 
ということで、彫刻>>>絵画なミケランジェロは、絵画を放り出して彫刻の依頼を喜んで引き受け、ローマへ行ってしまったのでした。
 
 

◆おわりに

 

 
「2人ともいい加減な理由で依頼を蹴りおって~!」と、フィレンツェ政庁は怒らなかったのかなと思いますが、なんといってもイタリア人ですから、こういうことはよくあったのかもしれません。
 
 
教皇庁からの依頼と言われると、文句も言えませんしね……。
 
 
そして、ミケランジェロが喜んで引き受けた教皇ユリウス2世からの依頼は、「めっちゃ立派な自分の霊廟」を作ってほしいというものだったのです。
 
 
彫刻をたくさん施す立体造形、ミケランジェロが大好きなタイプの仕事です。
 
 
そうして、ミケランジェロははりきりまくって、大理石のとれるカッタータまで自ら赴きました。そして、何年もかけて豪華な霊廟にふさわしい石探しをしたのです。
 
 
そうして、ようやく「これだ!」と思う石を持ってローマに帰ったら、気まぐれなユリウス2世はとっくに気が変わっていて、「もう霊廟造りはやめる!」と依頼をひるがえし、ミケランジェロは門前払いされてしまったのでした。費用も払ってくれませんでした。
 
 
ミケランジェロの性格からすると、きっと怒り心頭だったでしょうね
でも、絶大な権力を持つローマ教皇に歯向かう事はできません。
 
 
ミケランジェロは、これ以降、数人のローマ教皇に振り回されながら、傑作を残していくことになります。
 
 
でも、ローマ教皇の依頼を受けたからこそ、彼の作品は今も「ヴァチカン」に残っているのです。
 
 
「システィーナ礼拝堂の天井画」「最後の審判」
この超有名な壁画は、彫刻好きだったミケランジェロの絵画作品です。
 
 
なぜ、彼がこれほど壮大な「絵画」の仕事を請け負ったのか?
長くなりますので、それは次回お伝えします。

 
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