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こんにちは。
今回は「美の神」とまで呼ばれたヨーロッパ随一の美女・エリーザベトについて!
レースのような髪、白い肌、バラ色の頬と称賛された美貌の皇妃です。
目次
◆自由気ままなおてんば娘シシィ
エリーザベトは、1837年、神聖ローマ帝国のバイエルン王国の王族の傍系に生まれました。
愛称は「シシィ」。
多人数の兄弟の次女(第3子)で、のびのび育ったシシィは、乗馬や狩りが大好きなおてんば少女でした。
野原を自由に駆け回って、楽しい少女時代を過ごしていたのです。
1853年8月、シシィの姉ヘレーネがお見合いをするということで、シシィは付き添いで同行しました。
相手は、若きオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフです。
でも、あろうことか7歳年上の皇帝は、凛として無邪気な美しさをもった妹シシィに一目惚れしてしまったのでした。
そして、出会ってなんと4日後にはプロポーズされ、翌年には結婚式が執り行われたのです。
1854年の春、シシィは16歳で結婚しました。
このとき、シシィは、ハンガリー王、クロアチア王など47もの肩書きを持つハプスブルク家のフランツ・ヨーゼフ1世の皇妃となったのです。
◆自由を奪われ姑に追い詰められる
ハプスブルグ家は、600年の伝統としきたりのあるヨーロッパ有数の名門です。
そして、皇后になるということは、「義務や責任」も大きくのしかかるわけで、当然ですが生活は一変してしまう事になりました。
自由でいたかったシシィにとって、宮殿は堅苦しくて仕方がなく、牢獄に入れられたように思えたのでした。
当時の彼女は、こんな詩を残しています。
「目覚めるとそこは牢獄の中
足かせの重さにうちひしがれ・・・
懐かしい自由よ
ああ、お前は永遠に失われた」
姑ゾフィーは、そんなシシィに追い打ちをかけました。
歯並びが悪いなど欠点をあげつらい、日ごとの夫との夜の生活を報告させられたのです。(嫡男誕生を願うあまりか嫌がらせか、多分後者)
シシィは、10代後半に無事に3人の子供を産みました。
でも、嫡男のルドルフ始め、子供はすべて姑にを取り上げられ、シシィが子供と会えたのは、1日1時間ほど、しかも監視付きでしか会わせてもらえなかったのです。これはあんまりですね。なにこの姑!
頼みの夫フランツは、母のいいなりで、浮気までするありさまでした。夫がふがいないです。
それで、シシィは失望してしまいました。
宮廷内に彼女の居場所は、どこにもなかったのです。
◆異常なほどストイックな「美の追求」へ
きちんと嫡男を産んだのに、子供を取り上げられ、シシィはその心に空いた穴を埋めるように、自分の美しさをひたすら追及するようになっていきました。
水温7度で入浴し(お肌を引き締めるからよいと思っていた)、念入りにスキンケアした後、朝から3時間かけてヘアケアを行いました。ブラッシングと編み上げです。
シシィは、化粧をしませんでした。美しい人はそのままの肌で十分と考え、濃化粧している人を批判したのです。
彼女は、ダイエットとエクササイズも、ばっちり行っていました。
身長172cmで50㎏、50cmのウエストを保つために、苦行のような毎日を過ごしていたのでした。
毎晩、必ず体重を計り、少しでも50㎏を超えていたら、舞踏会の予定などすべてキャンセル、オレンジと牛乳だけのダイエットに取り組みました。
部屋には、吊り輪や肋木(ろくぼく)、平行棒まで置かれ、まるでスポーツジムのようだったのです。
散歩は毎日競歩で2時間、10㎞以上歩いたそうですよ。
夜は9時に就寝で、寝る時も顔には生肉パック、ウエストはお酢のタオルを巻いていたそうです。
臭くなかったんでしょうか・・・・
よく、こんな状態で眠れますね。
拒食症のような症状もあったそうなので、かなり精神的な問題を抱えていたんでしょう。
◆療養の旅に出て開眼する!
シシィが21歳のころ、人前で突然泣き出すなど情緒不安定な状態になり、胸の病にもなったので、療養の旅に出ることになりました。
行ったのは、大西洋の真珠と呼ばれるマデイラ島です。南国リゾートでした。
この療養の旅でシシィは多くの男性にその美を称賛され変わっていきます。
そうして、2年後宮廷に戻ったときには、以前の彼女とは違っていたのです。
美の力に目覚め、自分に自信がついたんですね。そして、多分、まったく違う生き方もできるということに気付いたのです。
そして、シシィは、しきたりの権化のような姑を完全無視し、自分の意見をはっきり言うようになったのです。
息子ルドルフを取り戻し、姑に許可なく会う事を禁止しました。なんか、急に強くなってますね。形勢逆転ぽいです。
でも、彼女は、宮廷で嫁姑バトルを続ける気はありませんでした。
また、旅に出たくなったのです・・・・・
◆「機関車皇后」と風刺されるほどに・・・
シシィは、30代後半から、旅に明け暮れるようになりました。
専用お召列車を用意し、30人以上のお世話係をつれて、愛犬、馬も連れて行ったのです。彼女の居室用にために2両使って、居心地よさそうなベッドも載せました。超豪華列車の旅です。
そして、イギリスから地中海の国々まで6000㎞以上も汽車で移動したのでした。ウイーンに戻るのは、1年に3カ月ほどでした。
機関車皇后という風刺画まで描かれるほどでした。
◆悲劇の始まり
シシィが41歳の銀婚式を迎えた頃には、数々の戦争に敗れて、ハプスブルグ家の威光は落ちていました。
夫フランツ・ヨーゼフ2世は、執務室で仕事をする日々を過ごし、シシィに手紙を書き続けました。
30歳になった長男のルドルフは、父と対立し、母に救いを求めました。でも、なぜかシシィは息子に手を差し伸べなかったのです。
そして、1889年 シシィが51歳のとき悲劇が起こります。
長男ルドルフが拳銃自殺をしてしまったのです。(心中ともいわれる)理由は、父との確執に疲れ果てたためと推測されています。
それ以降、シシィは、喪服だけを着るようになりました。なぜ、話を聞いてあげなかったのでしょう。シシィは精神的な病気を抱えていたのかもしれませんね。
そして、あれほど美を追求したシシィにも、老いが忍び寄りました。
50歳を超えたころから、シシィのあの白く美しい肌は、しわだらけになっていったのです。無理なダイエットを続けたのが原因だといわれています。
このとき、シシィは、全ての喜びを失って壊れてしまったのです。そうして、あちらこちらをさまよいながら、悲しみの晩年を過ごしました。
「私はカモメ
どこの陸地から来たものでもなく
どこの浜辺にも故郷はない
いかなる土地への絆もなく
ただ、波みから波へと飛び続ける」
(シシィの日記より)
そして、1898年9月、60歳のとき、スイスのジュネーブでレマン湖畔を散歩中、すれ違いざま、鋭利な刃物で、胸を一突きにされたのでした。
シシィは、滞在先のホテルで息を引き取りました。
犯人は、貴族に反発するイタリア人のアナーキストでした。
彼女が本当に安らげた場所は、この世になかったのかもしれませんね。
◆おわりに
彼女の美と孤独を取り上げて、悲劇の美女のように書かれることが多いですが、実際、彼女は皇后としては、ぜんぜん役に立っていません。(ハンガリーに関してだけは成果がありますが)
シシィの贅沢ぶりはすさまじく、宝石やドレス、若さと美しさを保つための美容への出費、ギリシアのコルフ島に絢爛豪華な城「アキレイオン」の建設、専用の贅を尽くした船や列車を使ったた豪華旅行などに、莫大な費用がかかっていたのです。それらすべてが、国民の血税からの出費でした。
彼女は、確かに進歩的な生き方をした女性かもしれませんが、尊大で傲慢な権威主義者でもあり、皇后・妻・母としての役割は、ほとんどすべて放棄しています。
いくら精神が病んでいたからといって、無責任すぎると思えてしまうのでした。