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こんにちは!
 
今回は神童モーツァルトについて!
 
 
モーツァルトの音楽の「凄さ」は、それはもう、今更言うまでもないほど語りつくされていますが、本当に不思議な音色だなーと思います。
 
 
10代で聞くのと30代以降に聞くのとでは、違った音に感じられるのです。今も読み続けられている文豪の小説みたいです。
 
 
若い頃は、ただただ音が溢れる軽やかな曲だったのが、年齢とともに、軽やかな明るい音の中に暗くよどんだものが潜んでいる、そんな感じを受けるようになったのでした。

 
 


 
 
彼は、音の色が見えた、一回聞いただけで複数の楽器の演奏を楽譜にできた、8歳で曲の構成を確立したなどなど、いろんな天才都市伝説(真実も多い)を残しています。
 
 
でも、けっして普通の幸せな人生ではありませんでした。モーツァルトはけっして「いい人」ではなく、失礼で傲慢、ものすごい浪費家だったといわれます。

 
 

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◆モーツアルトの生涯は?

 

 
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、1756年1月27日、オーストリアのザルツブルクに生まれました。
 
 
父のレオポルトは、ザルツブルクの宮廷作曲家・ヴァイオリニストで、自分の息子が天才だということを、いち早く見出します。
 
 
そして、モーツァルトは、幼少時から音楽の英才教育を受けました。この父による早期教育により、モーツァルトの才能は飛躍的に伸びたのです。
 
 
そして、父とともに音楽家としてザルツブルク大司教の宮廷に仕える一方、モーツァルト親子は何度もウィーン、パリ、ロンドン、およびイタリア各地に大旅行を行ったのです。
 
 
幼少期のモーツアルトは、どこへ行っても天才の名をほしいままにしました。人々は彼を「神童」とほめたたえました。
 
 
でも、21歳のとき、父や姉と別れてパリへ移ってから、彼はなかなか職につけず貧乏な生活をするしかなくなります。
 
 
天才と呼ばれる人にありがちですが、彼も世の中を渡っていく処世術が足りなかったのでしょう。
 
 
ウイーンに戻っても、貧乏な生活が続きました。でも、最近の研究では、モーツァルトは先輩ハイドンよりずーっと高給取りだったともいわれます。
 
 
貴族のように体面を保つために浪費し、ギャンブルにのめり込んで浪費しというのを、繰り返し、莫大なお金を使っていたのです。
 
 
幼いころからたくさんの素晴らしい楽曲を作ったモーツァルト、でも、生活破綻者に近い状態だったのです。
 
 
そうして、モーツァルトは、雪の舞う寒い日に、貧困の中35歳の生涯を閉じたのでした。
 
 
ひっそりとしたお葬式が終わると、彼の遺体は共同墓地に投げ捨てるように葬られました。
 
 
天才の最期としては、あまりにもさびしいものでした。

 
 

◆マリーアントワネットに求婚した?

 

 
オーストリアの女帝マリア・テレジアは、音楽が好きで、幼いモーツァルトのうわさを聞き、宮殿に招きました。
 
 
そして、彼の天才的な演奏と才能に、とても感嘆したのです。
 
 
モーツァルト自身も演奏が大成功して喝采を浴びたことに喜び、女帝マリア・テレジアのおひざの上に飛び乗って、ほっぺたにキスをしたそうです。子供だから許されたんでしょうなね、もちろん。( ̄▽ ̄)
  
 
 
モーツァルトは、宮殿に招かれたとき、床に滑って転んでしまったことがありました。
 
 
転んだモーツァルトに駆け寄って助けてくれたのがマリーアントワネット、フランス革命に翻弄される後のフランス王妃でした。
 
 
モーツァルトとマリーアントワネットは、そのときともに7歳でした。
 
 
モーツァルトは、とびきりチャーミングな皇女マリーアントワネットが助けてくれたことに、すっごく喜びます。当然ですね。
 
 
そして、マリーアントワネットに「大きくなったらぼくのお嫁さんにしてあげるね」とプロポーズしたのです。
 
 
なんだかこういうエピソードからも、後年の彼の性格のヤバさが表れているような気がします。無邪気で済まされなくなっていきます。
 
 
ま、このときは子供のかわいらしいジョークとされて、笑いをとって終わったようです。

 

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◆同時代以降のビッグネームから称賛の嵐

 

 
モーツァルトは、多くの音楽家から称賛を受けています。
 
 
私が一番印象に残っているのはシューベルトです。彼は若き日にモーツァルトの音楽を聴き、日記にこう記していますよ。
 
 
「おお、モーツァルト、不滅のモーツァルトよ。君は、より明るくよりよい生活についての快い映像を、どんなにたくさん、無限に数多く、私たちの魂に刻みつけてくれたことか!」
 
 
ベートーベンは、尊敬するモーツァルトに会いに行ったという逸話を残しています。
 
 
「いかなるときもわたしは自分をモーツァルトの最大の尊敬者の1人に数えてきましたが、これは最後の息を引き取るまで変わらないでしょう。」
 
 
他にも、先輩のハイドン、シューマン、リスト、ワーグナー、ドビュッシー、ブラームス、ショパンにリストまで、モーツァルトをほめたたえる言葉を残しています。
 
 
これだけのビッグネームが名を連ねて称賛している、それだけでも、彼が後世の音楽に与えた影響が、とんでも無いスケールだったと分かります。

 
 

◆モーツァルトの簡単年表


・1756年(0歳)1月27日
 ザルツブルクに生まれる
 
・1761年(5歳)
 最初の作曲『アンダンテ ハ長調 K.1a』。
 
・1762年(6歳)
マリア・テレジア御前演奏。
 
・1763年~1766年(7~10歳)
パリ・ロンドン旅行。
 
・1767年~1769年(11~13歳)
第2回ウィーン旅行。
 
・1769年~1771年(13~15歳)
 第1回イタリア旅行。
 
・1771年(15歳)
 第2回イタリア旅行。
 
・1772年~1773年(16~17歳)
 第3回イタリア旅行。
 
・1773年(17歳)
 第3回ウィーン旅行。
 
・1774年~1775年(18~19歳)
 第4回ウィーン旅行。
 
・1777年(21歳)
 ザルツブルクでの職を辞しミュンヘン、マンハイムへ移る。
 
・1778年(22歳)
 パリ移住。7月に母がパリで死去。
 
・1779年(23歳)
 ザルツブルクに帰郷。
 ザルツブルク宮廷でオルガニストとして復帰。
 
・1781年(25歳)
 ザルツブルク大司教と衝突し解雇。
 ウィーン移住。
 
・1782年(26歳)
 コンスタンツェ・ヴェーバーと結婚。
 
・1783年(27歳)
ザルツブルクに帰郷。
 
・1785年(29歳)
弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈。
 
・1786年(30歳)
オペラ『フィガロの結婚 K.492』初演。
 
・1787年(31歳)
父・レオポルト死去。
オペラ『ドン・ジョヴァンニ K.527』初演。
 
・1788年(32歳)
「3大交響曲」を作曲。
 
・1790年(34歳)
オペラ『コジ・ファン・トゥッテ K.588』初演。
 
・1791年(35歳)
12月5日ウィーンで死去。

 
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